真鍮とアイオライト 1

司書Y

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月夕に落ちる雨の名は

9 Aさんのためにできること 1

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 家に帰ってスマートフォンを開いても、やはり、鈴からの連絡はなかった。
 このまま、終わりになってしまうのだろうかと、怖い想像が頭を過る。頭を横に振っても、その考えは消えてはくれない。
 そもそも、鈴は菫には過ぎた相手だ。
 菫は思う。
 菫がお年頃の女子なら、妄想の中の理想の王子様そのものだろう。イケメンで、背が高くて、頭もいい。そのうえ、優しい。しかも、その優しさが自分にだけは特別手厚いのが視覚的に分かる。何より、自分のことをまっすぐに好きでいてくれる。正直、三次元に存在していいレベルではないと思う。
 普通に考えたら、そんな人が菫みたいなTHE平凡。に興味を持ってくれるはずがない。
 もしかしたら、全部夢だったんじゃなかろうかと、何度も思った。ある日突然目が覚めて、夢でした。と、言われたら納得してしまいそうだと、いつも思っていた。

 あーうん。そーねー。ですよねー。

 って。
 けれど、現実はそうはいかなかった。
 夢でした。
 で、納得できないくらい、菫は鈴が好きになっていた。もはや、生活の8割。いや、9割くらいは鈴に侵食されている。鈴なしで、どうやって生活していいのか分からくなるほどだった。

 だから、鈴からの連絡がないと、つらい。苦しい。痛くて、また、泣き出しそうだ。
 それでも、菫は、また、スマートフォンの画面を見た。
 ずっと続く、菫のメッセージ。既読はついていない。

 ごめん

 また、同じメッセージを打ち込んで送る。
 こんなふうに拒絶されてもまだ、あそこへ行こうとしている自分に菫自身も呆れる。それでも、約束を破ってでも行くのをやめようと思えない。だから、ごめん。しか、書けない。
 着信を拒否されていないことだけが唯一の救いだ。今にも切れそうな細い糸のようだけれど、まだ、繋がっているのだと信じたい。

「菫」

 じっと、スマートフォンの画面を見ていると、ふすまの向こうから椿の声が聞こえてきた。それから、菫の返事も聞かずに椿はふすまを開ける。

「いるなら返事をしろ」

 いつもなら、返事があるまで開けるな。と、言い返すところだけれど、そんな気にはなれない。

「あ……うん」

 曖昧に答えを返して、菫は椿を見た。
 手には、何故か白くて小さな箱を持っている。

「何?」

「あー。いや。その……ほら」

 差し出された箱を菫はよく知っている。緑風堂の店名が入ったスイーツの箱だ。

「どしたの? これ」

 緑風堂に行くと、よく菫は祖母と椿にお土産を買ってくる。だから、よく知っているのだが、それを椿が持ち帰るのは初めてだった。

「食え」

 鈴と会えなくなってから、菫は緑風堂に行っていない。鈴に許して貰えていないのに、緑風堂に行ったら迷惑になると思ったからだ。

「……なんで?」

 箱の蓋を開けると、中には菫の好きなほうじ茶のロールケーキが入っていた。5つも。

「あー。店主の。風祭さんだっけ? に聞いたら、お前はほうじ茶のヤツが好きだって言うから」

 いや。そういうことじゃなくて。と、口に出そうとした。

「いいから。食え。お前のために買ってきたんだ」

 口に出そうとしたけれど、口にすることはできなかった。一緒に持ってきていた皿とフォークを押し付けられたからだ。

「お前が来ないと、ネコが寂しがると言っていたぞ」

 椿は部屋の端に寄せてあった小さなテーブルを引っ張って来てから、菫からケーキの箱と皿を奪って、その上に置く。それから、不器用な手つきで、ケーキの箱から皿の上にケーキを出してくれた。

「ほら。食え」

 菫の手に無理矢理フォークを握らせる。

「……あ……りがと」

 甘い。匂いがする。緑風堂の匂いだ。
 葉が微笑んでいるのが見える気がした。貴志狼がカウンターの端の席に座っているのが見える気がした。
 それから、その向こうに鈴がトレイを持って立っているのが。

「……っ」

 フォークで一口分のケーキを切り分ける。それを口に入れる。
 甘い。
 それから、少ししょっぱい。
 頬を伝った涙が、口の端から入ってしまったからだ。

「美味いか?」

 ぐしゃぐしゃ。と、頭を撫でながら、椿が言う。

「……ん」

 頷いて、菫は一口しか食べていなかった残りのケーキを一気に口に押し込んだ。

「おい。無茶すんな」

 慌てる椿を他所に、口の中にいれたケーキを味わう。
 しばらく噛んで飲み込むと、菫は皿を椿に差し出した。

「おかわり」

 一瞬、呆けた顔をしてから、椿がまた、不器用にケーキを取り出してくれた。
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