真鍮とアイオライト 1

司書Y

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月夕に落ちる雨の名は

8 温泉饅頭 3

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「お腹がすいていない?」

 不意に、そう言われて、菫は顔を上げた。
 老婆の顔を見ると、さっきまでと変わらずににこにこ。と、笑っている。

「え? あ。いえ。あの」

 咄嗟に何と答えていいかわからずに、菫はしどろもどろになってしまった。

「これねえ。娘夫婦が旅行に行ったお土産でね。おきつねさまにお裾分けしようとおもったけれど、あなたにあげましょうねえ」

 そう言って、老婆はスモックのポケットから、お饅頭を出した。それから、そ。っと、菫の手を取ってその上に自分の手を重ねるようにしてお饅頭を乗せる。

「いえ。でも……」

「いいのよお。お腹がすいていると、辛いことや悲しいことに勝てませんよ?」

 老婆は微笑んで菫の手を放した。残ったのは、県内の有名温泉地の名前が入ったお饅頭だった。

「どうぞ。召し上がれ」

 期待に満ちた目で見られて、断れなくなってしまって、菫はのろのろ。と、その包みを開ける。
 それから、小さく頭を下げて、それを一口頬張った。

「……あまい」

 ずっと、何を食べても味なんてしなかったのに、それはとても甘くて、柔らかな味だった。

「みいんな、自分のためにしか動けないものですよ」

 ぽん。と、菫の頭に手を置いて、そっと撫でながら、老婆が言った。

「ただねえ。自分のためにしたことが、誰かのためになってしまうことも、あるものよ」

 もう一口お饅頭を頬張る。
 美味しいと感じたのは久しぶりだった。

「だからねえ。あなたが自分勝手にしたことに、私も自分勝手に感謝するの」

 菫が最後の一口を口に入れると、老婆は立ち上がった。

「また、来てくれる?」

 老婆の言葉に包み紙を見ていた視線を上げる。

「……はい。今日一日じゃ、全然。また、来ます」

 何故、そう答えたのか、菫にも分からなかった。来なければいけない義務はない。鈴との約束を破ることになる。
 それでも、そう答えていた。

「そう。それじゃ、私も、また来ますね。今度は、アイスクリームをもってこようかねえ」

 そう言って、老婆が立ち上がる。

「あ。いえ。差し入れは……お気遣いなく。それから、暑いので、無理せずに」

 慌てて菫も立ち上がって応えた。

「でも。……お茶とお饅頭……と。や。……ありがとうございました」

 それから、ぺこり。と、頭を下げる。
 本当に感謝したいのは、差し入れのことではない。無意味かもしれないこれが。たとえ一人でも誰かのためになっていると知ることは、ほんの小さいけれど、菫の心に温もりをくれた。

「ちゃんとお礼ができるのはいい子の証拠ね」

 そういって、老婆は笑う。まるで、小学生に言うようなセリフだけれど、腹は立たなかった。彼女から見たら、菫など小学生と変わらないのだろう。

「それじゃあねえ」

 そう言って、老婆は手を振って去っていく。その後ろ姿に気付く。さっきは自分のことで手いっぱいで気付かなかったけれど、明るい態度とは裏腹に重い足取り。恐らく、足に何かしら障害のようなものがあるのだろう。もしかしたら、ここへ来るだけでも大変なのかもしれない。

「……気を付けて」

 その背中に言葉を送ると、彼女はくるり。と、首だけをこちらに向けて、にっこり。と、微笑んだ。ずっと、笑っている人だった。

 その笑顔に心が痛む。
 誰にでも、その人なりの事情がある。きっと、彼女だって、本当はここの管理をしたい。けれど、あの足では無理だ。子供が怪我をする事故があったのだから、きっと、閉鎖してしまえばいいという子育てをする若い世代の人たちを頼ることもできなかったのだろう。
 彼女くらいの世代の人たちにはきっと、大きな葛藤があったはずだ。
 それを、菫は表には出さなかったとはいえ、心の中で責めた。そのことが、酷く傲慢で自分勝手なことのような気がして、気持ちが沈む。

「……なあ。あの人。ちゃんと、繋がろうとしてたぞ?」

 俯いたまま、菫は呟いた。返事はない。

「でも……今のままじゃ」

 それから、菫は沈んだ気持ちを𠮟りつけるように無理に顔を上げた。

「せめて。危なくないって、分かってもらえれば」

 何の意味もないかもしれない。けれど、彼女を責めた菫は逃げるわけにはいかなくなった。そう、自分に言い聞かせる。
 そうして、菫は、暗くなるまで、社の掃除を続けたのだった。
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