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月夕に落ちる雨の名は
8 温泉饅頭 2
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「……なつかしい」
まるで、自分のものではないかのように口が動く。口から零れた声は菫の声ではない。別の誰かの声のようだった。
「なつかしいなあ。おまえ。あの夜は月がきれいだった」
思い通りにならない身体が怖いとは思わなかった。それは、その人の気持ちが流れ込んできたからかもしれない。
「……あなた?」
老婆の口から零れた声も、老婆のそれではない。
「浩々と月が照っておるのに……雨が降っていた」
さあ。と、雨音が聞こえる。
今、見上げる空は、夏の太陽が浮かんでいるはずだった。
けれど、見えるのは月だ。
「あれはなんだったんだろうなあ」
菫の口から、疑問とも独り言ともとれるような言葉が零れる。
「きっとねえ。あなた。おきつねさまが、お祝いをくれたんですよ」
その問いに、老婆は答えた。
その微笑みが、若い女性のそれと重なる。
その時だった。
ぴんぽん。
と、スマートフォンが着信を知らせる音がした。
「……あ」
途端に風景は夏の荒れ果てた社に戻る。
「あらあら。娘だわ。何も言わずに出てきたから、心配しているみたいですねえ」
老婆がスマートフォンに視線を戻していた。身体はいつの間にか自分の意志で動かせるようになっていた。
さっきまで、菫が見ていたのは幻だったのだろうか。けれど、老婆は確かに菫の、いや、菫の口を借りた誰かの問いに返事をしていた。それすら、白昼夢だったのか、老婆の様子に変化はない。
「お掃除してくれてありがとうねえ。だけど、無理しちゃだめよ? 泣くくらい苦しいなら、お休みしてね」
泣いていたのを見られていたのだと、その時ようやく気付いて、菫は赤面した。と、いうよりも、酷い顔をしていただろうから、気付かれていない方がおかしかった。
「はい」
素直に答えると、老婆は微笑む。
「……でも、きっと、今、俺ができるのは……これくらいだから」
その老婆の笑顔に自嘲気味の半笑いを返す。いつも、へらへらしていると、周りの人たちに評される曖昧な笑顔だ。
「でもね。荒れ果てた小さな社の掃除なんて、誰にでもできるものではないですよ」
小さな手を拝むように擦り合わせて、老婆が言う。
さっきの光景がいつかあった本当のことだとしたら。老婆とその大切なものだったととしたら。その思い出の場所をきれいにしようとしている菫に感謝をしているのかもしれない。
「……違うんです」
けれど、菫は知っている。
「別に、あなたのためじゃない。この……社の主のためでもない」
それは、かつて人間を守護してくれていたものたちへの使命感とか、義務感とか、正義感とか、そういう偽善ではなく。荒れ果てた社が哀れだとか、可哀想だとか、悲しいとかそういう同情でもなく。忘れ去られていく者たちが安らかにあってほしいとか、繋がっていたいとか、感謝を伝えたいとか、そういう優しさでもない。
「俺はただ。自分の罪悪感とか。無力さとか。少しでも揺れてしまった心とか。そういうのを誤魔化したいだけだ」
吐き出すように、菫は言った。
大抵の人は、菫を『いいひと』と称する。
けれど、菫はそれが嫌だった。
自分は綺麗でも何でもない。ただ、いつだって、自分のためにしか動けない利己主義者だ。
誰にも言わないよう、内緒にはしていたが、人に見えないものが見える目を持っているのを、気付かれる時だってあった。そんなとき、向けられる奇異の目が怖かった。そんな無邪気で無遠慮な悪意を受け流すために小さかった菫が覚えたのが愛想笑いだ。『そんなの見えるわけないじゃん』と、へらへら笑っていると大抵は皆納得してくれた。普段から少しでも『いいひと』と思われていれば、皆、菫の嘘を信じてくれた。
だから、つけていた仮面。外したいと思っても、それは本当の顔のように菫に張り付いて、元の自分がどんなふうだったのかすら、思い出せない。
そんな自分を好きになれるはずがない。
「なんにも……変えられないって。知ってるくせに」
そんな自分を鈴は好きだと言ってくれた。ただ一人、菫が見える目を持っていても、おかしいとは言わなかった。兄でさえ理解してくれなかったのに、全部分かってくれた。それは単に同類だったからかもしれない。それでも、菫にとっては鈴は特別だった。
けれど、鈴を怒らせて、不快にさせた。自分が、救われるためだけに。
まるで、自分のものではないかのように口が動く。口から零れた声は菫の声ではない。別の誰かの声のようだった。
「なつかしいなあ。おまえ。あの夜は月がきれいだった」
思い通りにならない身体が怖いとは思わなかった。それは、その人の気持ちが流れ込んできたからかもしれない。
「……あなた?」
老婆の口から零れた声も、老婆のそれではない。
「浩々と月が照っておるのに……雨が降っていた」
さあ。と、雨音が聞こえる。
今、見上げる空は、夏の太陽が浮かんでいるはずだった。
けれど、見えるのは月だ。
「あれはなんだったんだろうなあ」
菫の口から、疑問とも独り言ともとれるような言葉が零れる。
「きっとねえ。あなた。おきつねさまが、お祝いをくれたんですよ」
その問いに、老婆は答えた。
その微笑みが、若い女性のそれと重なる。
その時だった。
ぴんぽん。
と、スマートフォンが着信を知らせる音がした。
「……あ」
途端に風景は夏の荒れ果てた社に戻る。
「あらあら。娘だわ。何も言わずに出てきたから、心配しているみたいですねえ」
老婆がスマートフォンに視線を戻していた。身体はいつの間にか自分の意志で動かせるようになっていた。
さっきまで、菫が見ていたのは幻だったのだろうか。けれど、老婆は確かに菫の、いや、菫の口を借りた誰かの問いに返事をしていた。それすら、白昼夢だったのか、老婆の様子に変化はない。
「お掃除してくれてありがとうねえ。だけど、無理しちゃだめよ? 泣くくらい苦しいなら、お休みしてね」
泣いていたのを見られていたのだと、その時ようやく気付いて、菫は赤面した。と、いうよりも、酷い顔をしていただろうから、気付かれていない方がおかしかった。
「はい」
素直に答えると、老婆は微笑む。
「……でも、きっと、今、俺ができるのは……これくらいだから」
その老婆の笑顔に自嘲気味の半笑いを返す。いつも、へらへらしていると、周りの人たちに評される曖昧な笑顔だ。
「でもね。荒れ果てた小さな社の掃除なんて、誰にでもできるものではないですよ」
小さな手を拝むように擦り合わせて、老婆が言う。
さっきの光景がいつかあった本当のことだとしたら。老婆とその大切なものだったととしたら。その思い出の場所をきれいにしようとしている菫に感謝をしているのかもしれない。
「……違うんです」
けれど、菫は知っている。
「別に、あなたのためじゃない。この……社の主のためでもない」
それは、かつて人間を守護してくれていたものたちへの使命感とか、義務感とか、正義感とか、そういう偽善ではなく。荒れ果てた社が哀れだとか、可哀想だとか、悲しいとかそういう同情でもなく。忘れ去られていく者たちが安らかにあってほしいとか、繋がっていたいとか、感謝を伝えたいとか、そういう優しさでもない。
「俺はただ。自分の罪悪感とか。無力さとか。少しでも揺れてしまった心とか。そういうのを誤魔化したいだけだ」
吐き出すように、菫は言った。
大抵の人は、菫を『いいひと』と称する。
けれど、菫はそれが嫌だった。
自分は綺麗でも何でもない。ただ、いつだって、自分のためにしか動けない利己主義者だ。
誰にも言わないよう、内緒にはしていたが、人に見えないものが見える目を持っているのを、気付かれる時だってあった。そんなとき、向けられる奇異の目が怖かった。そんな無邪気で無遠慮な悪意を受け流すために小さかった菫が覚えたのが愛想笑いだ。『そんなの見えるわけないじゃん』と、へらへら笑っていると大抵は皆納得してくれた。普段から少しでも『いいひと』と思われていれば、皆、菫の嘘を信じてくれた。
だから、つけていた仮面。外したいと思っても、それは本当の顔のように菫に張り付いて、元の自分がどんなふうだったのかすら、思い出せない。
そんな自分を好きになれるはずがない。
「なんにも……変えられないって。知ってるくせに」
そんな自分を鈴は好きだと言ってくれた。ただ一人、菫が見える目を持っていても、おかしいとは言わなかった。兄でさえ理解してくれなかったのに、全部分かってくれた。それは単に同類だったからかもしれない。それでも、菫にとっては鈴は特別だった。
けれど、鈴を怒らせて、不快にさせた。自分が、救われるためだけに。
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