真鍮とアイオライト 1

司書Y

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月夕に落ちる雨の名は

8 温泉饅頭 1

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 セミの声が聞こえる。松葉が風にざわめく音がする。
 遠くから車の音。人が息づくざわめき。
 老婆の話が終わったころには、菫は少し落ち着きを取り戻していた。あるべき音が聞こえる。あるはずの温度を感じる。

「それは……本当にあったことなんですか?」

 隣に座る小さな老婆に、菫は問うた。
 もし、菫が人ならざるものを見る目を持っていなかったとしたら、おとぎ話だと笑ったと思う。いや、笑いはしないけれど、信じることはなかっただろう。地域の面白い民話が聞けたと、後で図書館で皆に話して聞かせたかもしれない。

「さあ。どうでしょうねえ」

 小首を傾げて、老婆は答えた。
 言葉とは裏腹に、ほかの人がどう思っているのかはともかく、老婆は信じているのだと、菫には思えた。

「ただねえ。この社ができたのは、里を守ってくれた生贄の娘と、その娘を見殺しにした私たちを許してくれたおきつねさまへの感謝と謝罪のためなのね。それは、忘れてはいけないこと。
 それなのにねえ。本当にごめんなさいねえ。おきつねさま」

 社に向けて、老婆はしわがれた手を合わせる。目を閉じる横顔は、厳粛で敬虔な祈りに満ちている。

「あの」

 その老婆の小さな肩に菫は声をかけた。

「おばあちゃんは、ここが。好きですか?」

 なぜ、そんなことを聞いたのか、菫にも分からない。ただ、ここが好きなら、こんなふうになってしまう前にどうにかすることができたのではないかと思う。本来、ここを管理するのは氏子であったという彼女らの役目だ。

「好きですよ。でもねえ。どうにも、できんかった。みんなねえ。もっと、大切なものが、あったからねえ」

 それは、逃げるための口実だ。
 と、思う。ただの八つ当たりかもしれないけれど、思わずにいられない。勝手に祀っておいて、己に願いがあるときは散々頼っておいて、必要がなくなったら、もっと大切なものがあるなんて言い訳に過ぎない。

「……きっと。のぶにだって……たいせつなものが……あったんだ」

 思わず、言葉が零れた。
 多分。だから、菫は黒羽を放ってはおけない。
 人がしたことをすべて菫が背負うことなんてできないことは分かっているし、そんな義務もないことは知っている。黒羽がそれを望まないことも、鈴が快く思わないことも全部分かっている。けれど、菫は見てしまった。見えてしまった。そんな目を持ちたいと思ったことは一度もないけれど、見て見ぬふりをしたら、言い訳をするだけの人と同じになってしまう。同じにはなりたくない。
 そんな気がした。

「ええ。ええ。誰にでも、大切なものがあるのものねえ。
 だから、私ができるのは、毎日手を合わせるぐらい」

 そう言って、今度は老婆はすぐわきにある小さな小屋に手を合わせた。よく見ると、その小屋の前だけは、少し草が薄い。もしかしたら、彼女は毎日ここに参っているのだろうか。
 だから、小さな菫が、石の前に置かれていたのだろうか。

「私が男だったらねえ。息子がここに残ってくれていたらねえ。せめて、あの人が……もう少しだけ長生きしてくれたらねえ」

 その姿に、菫は言葉を失った。老婆は涙ぐんでいた。
 その向こうに見える。
 古くはなっている。けれど、ちゃんと手入れをされている社。祭囃子。狐の面をつけた若者たち。
 そして、老婆と重なるように座っている若い女性と、菫の位置に座る若い男性。
 きっと、これは、菫に重なるようにして座る男性の見た景色だ。
 身体は動かない

「……なつかしい」
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