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月夕に落ちる雨の名は
7 枯れていく世界 2
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「……大丈夫?」
その声が聞こえたのは、ひとしきり泣いて、放心していた時だった。
いつの間にか、投げ出した草刈り機は止まっている。随分と長く泣いていたのかもしれない。時間の感覚は分からないけれど、酷く喉が渇いて、身体は熱くて、頭が痛かった。
「……あ。はい」
決して大丈夫ではない。
けれど、反射的に菫は答えた。他に言葉は見つからない。
「そんなところにおったら、熱中症になりますよ? こっちへいらっしゃい」
そっと、肩に手がのる。声のする方に顔を上げると、人の好さそうな老婆がにこにこと笑っていた。
「……はい」
また、言われるままに答えて、のろころ。と、立ち上がる。そして、その老婆が手を引いてくれるのに従って、日陰になっている場所まで歩く。そこは、まだ壊れていない背の低い石垣が残っている場所で、犬小屋ほどの大きさの小さな小屋が朽ちかけて残っている場所だった。そこだけは何故か、少しだけ草が少ない。小屋の中には丸い石が置いてあって、ボロボロの注連縄が巻かれている。その前には一輪。菫の花が置いてあった。
「さあ。ここに座って」
老婆の勧めに従って、菫はそこに座った。太陽の光が遮られて、少しだけ、涼しい。頬を微かに風が撫ぜる。風など今まで吹いていただろうか。と、ふと思うけれど、そんな思いはすぐに消えていく。
「はい。どうぞ」
菫の隣に座って、老婆はペットボトルのお茶を差し出した。
「あ……いえ。そんな」
やはり、何かを考えたわけではないけれど、菫は条件反射のように遠慮していた。
「いいのよ。ここを掃除してくれている御礼」
そういって、老婆は菫の手にペットボトルを握らせる。
「え? あ。でも……」
にこにこ。と、笑う老婆の優し気な笑顔とペットボトルを見比べて、菫は固辞するのを諦めて、ぺこり。と、頭を下げた。蓋に手をかけてペットボトルを開ける。口をつけると、それはとても冷えていて、気付けば一気に殆どを飲み干してしまっていた。
「ありがとうございます」
ふう。と、吐息を吐いてから、菫は改めて老婆を見た。
恐らく、近所の人なのだろう。スモックのような家事着のまま、靴もサンダル履きで、手にはペットボトルのほかに、何も持っていない。
「お礼を言いに来たのは私ですよ」
そう言って、老婆は社を見回した。
「私はね。ここの氏子だったの。昔はねえ。みんなで協力してお掃除をしていたんだけれどねえ。もう、歳をとってしまって。若い人はいそがしくて、お社のことを考えていらなくてねえ。掃除をしてくれる人も。ひとり、ふたりと減ってしまってね。こんなふうに荒れてしまっているの。
だからねえ。区長さんが、お掃除をしてくださる方がいるっておっしゃってたからねえ。せめて、お礼をしたくてねえ」
菫の手にそのしわがれた小さな手を重ねて、老婆は『ありがとうねえ』と、くしゃり。と、顔を皺だらけにして笑った。
「あなた。市の職員さんですってね」
「あ。いえ。でも。職員としてここにいるわけではなくて……その。ただ……放っておけなくて」
ここを掃除している理由を菫は説明できる気がしなかった。だから、そんな言い方になってしまった。
「あの……っ。その。恩があるんです。助けてもらった……ってか」
言ってしまってから、荒れ果てているのが放っておけないと言っているように聞こえてしまうんではないか。放置している地域の人を責めているように聞こえるのではないかと、言い直す。けれど、それも、おかしな言い方になってしまって、菫は口籠った。
「あら。じゃあ。私とおなじね」
菫の要領を得ない説明に、老婆は微笑んで、社を見た。
「私たちもね。恩があるの。助けてもらった恩。だから、社を大切に守ってきたのよ」
「え? 助けてもらったって……狐に。ですか?」
問い返すと、老婆はくすり。と、笑う。
「信じられないでしょうねえ」
きっと信じられないと言っても、老婆は笑ってくれたと思う。けれど、菫は信じることができた。
だから、首を横に振った。
そんな菫を見て、老婆は話し始めた。
その声が聞こえたのは、ひとしきり泣いて、放心していた時だった。
いつの間にか、投げ出した草刈り機は止まっている。随分と長く泣いていたのかもしれない。時間の感覚は分からないけれど、酷く喉が渇いて、身体は熱くて、頭が痛かった。
「……あ。はい」
決して大丈夫ではない。
けれど、反射的に菫は答えた。他に言葉は見つからない。
「そんなところにおったら、熱中症になりますよ? こっちへいらっしゃい」
そっと、肩に手がのる。声のする方に顔を上げると、人の好さそうな老婆がにこにこと笑っていた。
「……はい」
また、言われるままに答えて、のろころ。と、立ち上がる。そして、その老婆が手を引いてくれるのに従って、日陰になっている場所まで歩く。そこは、まだ壊れていない背の低い石垣が残っている場所で、犬小屋ほどの大きさの小さな小屋が朽ちかけて残っている場所だった。そこだけは何故か、少しだけ草が少ない。小屋の中には丸い石が置いてあって、ボロボロの注連縄が巻かれている。その前には一輪。菫の花が置いてあった。
「さあ。ここに座って」
老婆の勧めに従って、菫はそこに座った。太陽の光が遮られて、少しだけ、涼しい。頬を微かに風が撫ぜる。風など今まで吹いていただろうか。と、ふと思うけれど、そんな思いはすぐに消えていく。
「はい。どうぞ」
菫の隣に座って、老婆はペットボトルのお茶を差し出した。
「あ……いえ。そんな」
やはり、何かを考えたわけではないけれど、菫は条件反射のように遠慮していた。
「いいのよ。ここを掃除してくれている御礼」
そういって、老婆は菫の手にペットボトルを握らせる。
「え? あ。でも……」
にこにこ。と、笑う老婆の優し気な笑顔とペットボトルを見比べて、菫は固辞するのを諦めて、ぺこり。と、頭を下げた。蓋に手をかけてペットボトルを開ける。口をつけると、それはとても冷えていて、気付けば一気に殆どを飲み干してしまっていた。
「ありがとうございます」
ふう。と、吐息を吐いてから、菫は改めて老婆を見た。
恐らく、近所の人なのだろう。スモックのような家事着のまま、靴もサンダル履きで、手にはペットボトルのほかに、何も持っていない。
「お礼を言いに来たのは私ですよ」
そう言って、老婆は社を見回した。
「私はね。ここの氏子だったの。昔はねえ。みんなで協力してお掃除をしていたんだけれどねえ。もう、歳をとってしまって。若い人はいそがしくて、お社のことを考えていらなくてねえ。掃除をしてくれる人も。ひとり、ふたりと減ってしまってね。こんなふうに荒れてしまっているの。
だからねえ。区長さんが、お掃除をしてくださる方がいるっておっしゃってたからねえ。せめて、お礼をしたくてねえ」
菫の手にそのしわがれた小さな手を重ねて、老婆は『ありがとうねえ』と、くしゃり。と、顔を皺だらけにして笑った。
「あなた。市の職員さんですってね」
「あ。いえ。でも。職員としてここにいるわけではなくて……その。ただ……放っておけなくて」
ここを掃除している理由を菫は説明できる気がしなかった。だから、そんな言い方になってしまった。
「あの……っ。その。恩があるんです。助けてもらった……ってか」
言ってしまってから、荒れ果てているのが放っておけないと言っているように聞こえてしまうんではないか。放置している地域の人を責めているように聞こえるのではないかと、言い直す。けれど、それも、おかしな言い方になってしまって、菫は口籠った。
「あら。じゃあ。私とおなじね」
菫の要領を得ない説明に、老婆は微笑んで、社を見た。
「私たちもね。恩があるの。助けてもらった恩。だから、社を大切に守ってきたのよ」
「え? 助けてもらったって……狐に。ですか?」
問い返すと、老婆はくすり。と、笑う。
「信じられないでしょうねえ」
きっと信じられないと言っても、老婆は笑ってくれたと思う。けれど、菫は信じることができた。
だから、首を横に振った。
そんな菫を見て、老婆は話し始めた。
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