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月夕に落ちる雨の名は
7 枯れていく世界 1
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暑い。
額に浮かんだ汗が、滴って頬を伝う。そして、腕に落ちて、ツナギの袖に吸い込まれていく。
真夏の太陽は、伸び放題の松の枝に遮られてるとはいえ、暑い。虫と怪我の対策で厚手の長袖ツナギを着ているからなおさらだ。
それでも、構わずに菫は手を動かし続けていた。
伸び放題の夏草は勢いが良く、切るのに難儀する。ところどころに石畳が盛り上がっている部分があって、派手な音を立てた歯が跳ね返されて、手がしびれた。
喉が渇いている気がする。
水分を取った方がいいかと思うけれど、手を止めるのが嫌で、もう少し、もう少しと作業している間に、恐らく一時間は経っていただろう。
ふと。菫は思う。
何故、こんなことをしているのだろう。
顔をあげて周りを見回すと、遠く枝の隙間に見える民家から、誰かが顔を出して菫を見ていた。反射的にぺこり。と頭を下げる。そうすると、まるで、胡散臭いものでも見るかのように、その人物はそそくさと家の中に引っ込んでしまった。
まるで。不審人物だ。
は。と、笑いともため息とも言えない息が漏れた。あんな目で見られてまですることなのだろうか。
そんなふうに思うけれど、手を止めることはなかった。
別に意地になっているわけではないし、使命感に駆られているわけでもない。
いい人になりたいわけでも、自棄になっているわけでもない。
それなら、どうして。
と。自分でも思う。
菫は黒羽のことが嫌いではなかった。
チャラいヤツは元々苦手だから、最初に会ったときは、少し怖かった。
ただ、菫がそうだと思っていた出会いは最初ではなかった。
大昔のことは、ただの夢や妄想かもしれないけれど、少なくとも、少年時代に黒羽が助けてくれたのは勘違いではない。よく覚えてはいない。けれど、はじめて助けられたあの日以外にも、恐らく黒羽は菫を何度も助けてくれている。
今はそれが分かる。
感謝?
散々助けてもらっていたと知っても、黒羽への思いはその言葉とは少し違っていた。
きっと、助けてもらっていないとしても、この気持ちが変わることはないだろう。
それは、とても切なかった。それでいて優しく、柔らかく、温かかった。それは、薄く、けれど強い幕の向こう側に在るようで、酷く遠く感じる。それなのに、時折、その感情はすぐ近くに感じられた。
その気持ちを思うとき、菫は苦しくなる。泣きたいような衝動に駆られる。何か、とても、悪いことをしているような気持ちになって、いても立ってもいられなくなる。
呼ばれて、無理矢理ここへ放り出されなくても、たぶん、菫はここに来てしまっていただろうと、今は思う。その衝動は菫自身が意識できないほど儚く、抗えないほど強かった。まるで、身体の中にもう一人の自分がいて、その自分に無理矢理引きずられているようだと、感じる。
だから、こんなことになってもまだ。
いや、こんなふうになってしまったから、余計に、こんなところにまた、来てしまうのだ。鈴との約束を破ってまで。
鈴に会えない、声が聴けない。メッセージすらもらえない。毎日、許しを待って、許して貰うことができなくて、疲れ切った菫の心は、衝動に抗う力を失っていた。
松林には、誰もいない。
ただ、菫が動かしている草刈り機の音だけが響いている。
太陽は随分と上に登っていて、松林の切れ間から差す太陽が容赦なく菫の肩を腕を頭を灼く。
雫が、頬を伝って、落ちた。
片手を離し、頬を拭う。首にかけたスポーツタオルはもう、びしょ濡れだ。だからというわけではない。頬をまた、雫が伝うのは、それが止まることなく菫の瞳から溢れているからだ。
それを、分かってほしいと、鈴に話すことが菫にはできない。
どう話したとしても、多分、菫が鈴のことよりも黒羽のことを気にかけているようにしか、聞こえないと思う。それでも、分かってほしかった。
確かに、黒羽のことが嫌いではない。むしろ、好感を持っていると思う。それでも、その気持ちは鈴への思いとは違う。
黒羽を思ってこんなふうになったりはしない。
たった数日連絡が来ないくらいで、何もかも全部終わってしまったみたいな気持ちにはならない。どうやって呼吸をしていいか分からなくなったりしない。死んでしまいたいとかじゃなくて、無くなってしまいたいなんて思ったりしない。
まるで、菫が流した涙で、世界が枯れていくようだった。
「……ごめ……すず」
地面に、草刈り機を投げ出して、蹲るように菫は座り込んだ。
「……あやまるから……」
呟くと、また、涙が溢れて、心が潰れそうになって、痛みに声が上がる。子供のように声をあげて、菫は泣いた。
額に浮かんだ汗が、滴って頬を伝う。そして、腕に落ちて、ツナギの袖に吸い込まれていく。
真夏の太陽は、伸び放題の松の枝に遮られてるとはいえ、暑い。虫と怪我の対策で厚手の長袖ツナギを着ているからなおさらだ。
それでも、構わずに菫は手を動かし続けていた。
伸び放題の夏草は勢いが良く、切るのに難儀する。ところどころに石畳が盛り上がっている部分があって、派手な音を立てた歯が跳ね返されて、手がしびれた。
喉が渇いている気がする。
水分を取った方がいいかと思うけれど、手を止めるのが嫌で、もう少し、もう少しと作業している間に、恐らく一時間は経っていただろう。
ふと。菫は思う。
何故、こんなことをしているのだろう。
顔をあげて周りを見回すと、遠く枝の隙間に見える民家から、誰かが顔を出して菫を見ていた。反射的にぺこり。と頭を下げる。そうすると、まるで、胡散臭いものでも見るかのように、その人物はそそくさと家の中に引っ込んでしまった。
まるで。不審人物だ。
は。と、笑いともため息とも言えない息が漏れた。あんな目で見られてまですることなのだろうか。
そんなふうに思うけれど、手を止めることはなかった。
別に意地になっているわけではないし、使命感に駆られているわけでもない。
いい人になりたいわけでも、自棄になっているわけでもない。
それなら、どうして。
と。自分でも思う。
菫は黒羽のことが嫌いではなかった。
チャラいヤツは元々苦手だから、最初に会ったときは、少し怖かった。
ただ、菫がそうだと思っていた出会いは最初ではなかった。
大昔のことは、ただの夢や妄想かもしれないけれど、少なくとも、少年時代に黒羽が助けてくれたのは勘違いではない。よく覚えてはいない。けれど、はじめて助けられたあの日以外にも、恐らく黒羽は菫を何度も助けてくれている。
今はそれが分かる。
感謝?
散々助けてもらっていたと知っても、黒羽への思いはその言葉とは少し違っていた。
きっと、助けてもらっていないとしても、この気持ちが変わることはないだろう。
それは、とても切なかった。それでいて優しく、柔らかく、温かかった。それは、薄く、けれど強い幕の向こう側に在るようで、酷く遠く感じる。それなのに、時折、その感情はすぐ近くに感じられた。
その気持ちを思うとき、菫は苦しくなる。泣きたいような衝動に駆られる。何か、とても、悪いことをしているような気持ちになって、いても立ってもいられなくなる。
呼ばれて、無理矢理ここへ放り出されなくても、たぶん、菫はここに来てしまっていただろうと、今は思う。その衝動は菫自身が意識できないほど儚く、抗えないほど強かった。まるで、身体の中にもう一人の自分がいて、その自分に無理矢理引きずられているようだと、感じる。
だから、こんなことになってもまだ。
いや、こんなふうになってしまったから、余計に、こんなところにまた、来てしまうのだ。鈴との約束を破ってまで。
鈴に会えない、声が聴けない。メッセージすらもらえない。毎日、許しを待って、許して貰うことができなくて、疲れ切った菫の心は、衝動に抗う力を失っていた。
松林には、誰もいない。
ただ、菫が動かしている草刈り機の音だけが響いている。
太陽は随分と上に登っていて、松林の切れ間から差す太陽が容赦なく菫の肩を腕を頭を灼く。
雫が、頬を伝って、落ちた。
片手を離し、頬を拭う。首にかけたスポーツタオルはもう、びしょ濡れだ。だからというわけではない。頬をまた、雫が伝うのは、それが止まることなく菫の瞳から溢れているからだ。
それを、分かってほしいと、鈴に話すことが菫にはできない。
どう話したとしても、多分、菫が鈴のことよりも黒羽のことを気にかけているようにしか、聞こえないと思う。それでも、分かってほしかった。
確かに、黒羽のことが嫌いではない。むしろ、好感を持っていると思う。それでも、その気持ちは鈴への思いとは違う。
黒羽を思ってこんなふうになったりはしない。
たった数日連絡が来ないくらいで、何もかも全部終わってしまったみたいな気持ちにはならない。どうやって呼吸をしていいか分からなくなったりしない。死んでしまいたいとかじゃなくて、無くなってしまいたいなんて思ったりしない。
まるで、菫が流した涙で、世界が枯れていくようだった。
「……ごめ……すず」
地面に、草刈り機を投げ出して、蹲るように菫は座り込んだ。
「……あやまるから……」
呟くと、また、涙が溢れて、心が潰れそうになって、痛みに声が上がる。子供のように声をあげて、菫は泣いた。
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