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月夕に落ちる雨の名は
6 ごめん 2
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自分が何をしているかなんて、菫はあまり深く考えてはいなかった。自分を取り巻く世界の全部がふわふわと現実味がない。考えないといけないことがあるのだとはわかっていても、考え始めてもすぐに別のことで頭がいっぱいになってしまった。
だから、深くなんて考えていなったのだ。
何度も何度も、鈴は『行くな』と、言っていたその場所に菫はまた、立っていた。夏の盛りのことだ。午前中で、松林の中とは言え、暑い。
祖母の畑仕事の手伝いや、庭の手入れ、地区の掃除のときに来ているツナギに麦わら帽子。首にはスポーツタオル。軍手と長靴。手には、刈払い用チップソーを持っている。田舎の町では所持率の高い、所謂、草刈り機というやつだ。
電話は、黒羽の社を管理している地区の区長さんからだった。
『立ち入るのは許すけれど、何が起こっても責任はとらない』
『近隣の人たちに迷惑をかけない』
『掃除をするのは勝手だけれど、社の修繕に地区が人手や金銭を出すことはできないし、要求しない』
一方的にそれを告げて、約束させられて、電話は切れた。
正直、もう、どうでもよかった。否。どうでもいいわけではないけれど、そのことを考える余裕が菫にはなかった。
だから、ここへ来たのは、黒羽を救いたいなんて思ったからではない。そもそも、こんなことで黒羽を助けられるのかわからないどころか、意味がない可能性が高い。ただ、他にすることがなくて、家に居ると祖母がとても心配そうな顔をしているのが嫌で、家を出た。
草刈り機の燃料を入れてから、エンジンをかける。庭の手入れで慣れているから、考えなくてもそれくらいはできた。
エンジンをかけると、ほかの音は殆ど聞こえなくなった。道路を走る車の音も、セミの声も、人が息づくざわめきも、全てが騒がしい機械音にかき消される。まるで、世界から切り離されたように感じた。
ふと。周りを見回す。敷地と松林を分けるあたりに、トラロープが張ってあった。そこからが、社の敷地だ。
松林で囲まれた社。広くはない。松林の下には雑草はあまりないのだが、社が建っている4・50坪ほどの広さの正方形の土地には高い木がなく、膝より高い草が茂っている。だから、草の下がどうなっているのか、菫は知らない。知らないはずなのに、分かる。かつてそこは飛び石と砂利が敷かれた参道と平らに均された土があった。
恐らくはじめは赤かった鳥居。傾いて色褪せている。
崩れかけた手水場。傾いた手水鉢には降り積もった松葉と濁った水が溜まっていた。
双子の狐の像。右のコが傾いて、左のコは台座が大きく欠けている。ボロボロの前掛けは以前来たときにはまだあったのだが、もう、両方なくなっていた。
社は酷く暗い。松林の隙間になって太陽が当たる場所のはずなのに、異様なまでの暗さだ。それは、夜の暗さというよりも、死の暗さを思わせる。巻き付いたツタがまるで、それを昏い場所に引き込もうとする無数の手のように感じられて、寒気がする。
こんな場所を、少し掃除したからと言って何になるのだろう。
そんなことを考えながらロープの内側に入る。
内側に入ると、少しだけ、空気が変わった気がした。別に清浄な空気になったわけでも、ドロドロした怨念を感じたというわけでもない。ただ、外と内とは違った。それはわずかな違いだった。友達のうちに遊びに行ったとき、家に入ったときに感じる匂いの違い。それに似ていた。
「お邪魔します」
だから、菫は無意識に言った。
それから、草刈り機のエンジンの出力をあげて、草刈りを始める。
手に伝わってくるむず痒いような振動。時折、石のような硬いものに当たって、歯が、ぎいん。と、音を立てる。
ただ、手を動かしていると、色々な思いが浮かんできた。
だから、深くなんて考えていなったのだ。
何度も何度も、鈴は『行くな』と、言っていたその場所に菫はまた、立っていた。夏の盛りのことだ。午前中で、松林の中とは言え、暑い。
祖母の畑仕事の手伝いや、庭の手入れ、地区の掃除のときに来ているツナギに麦わら帽子。首にはスポーツタオル。軍手と長靴。手には、刈払い用チップソーを持っている。田舎の町では所持率の高い、所謂、草刈り機というやつだ。
電話は、黒羽の社を管理している地区の区長さんからだった。
『立ち入るのは許すけれど、何が起こっても責任はとらない』
『近隣の人たちに迷惑をかけない』
『掃除をするのは勝手だけれど、社の修繕に地区が人手や金銭を出すことはできないし、要求しない』
一方的にそれを告げて、約束させられて、電話は切れた。
正直、もう、どうでもよかった。否。どうでもいいわけではないけれど、そのことを考える余裕が菫にはなかった。
だから、ここへ来たのは、黒羽を救いたいなんて思ったからではない。そもそも、こんなことで黒羽を助けられるのかわからないどころか、意味がない可能性が高い。ただ、他にすることがなくて、家に居ると祖母がとても心配そうな顔をしているのが嫌で、家を出た。
草刈り機の燃料を入れてから、エンジンをかける。庭の手入れで慣れているから、考えなくてもそれくらいはできた。
エンジンをかけると、ほかの音は殆ど聞こえなくなった。道路を走る車の音も、セミの声も、人が息づくざわめきも、全てが騒がしい機械音にかき消される。まるで、世界から切り離されたように感じた。
ふと。周りを見回す。敷地と松林を分けるあたりに、トラロープが張ってあった。そこからが、社の敷地だ。
松林で囲まれた社。広くはない。松林の下には雑草はあまりないのだが、社が建っている4・50坪ほどの広さの正方形の土地には高い木がなく、膝より高い草が茂っている。だから、草の下がどうなっているのか、菫は知らない。知らないはずなのに、分かる。かつてそこは飛び石と砂利が敷かれた参道と平らに均された土があった。
恐らくはじめは赤かった鳥居。傾いて色褪せている。
崩れかけた手水場。傾いた手水鉢には降り積もった松葉と濁った水が溜まっていた。
双子の狐の像。右のコが傾いて、左のコは台座が大きく欠けている。ボロボロの前掛けは以前来たときにはまだあったのだが、もう、両方なくなっていた。
社は酷く暗い。松林の隙間になって太陽が当たる場所のはずなのに、異様なまでの暗さだ。それは、夜の暗さというよりも、死の暗さを思わせる。巻き付いたツタがまるで、それを昏い場所に引き込もうとする無数の手のように感じられて、寒気がする。
こんな場所を、少し掃除したからと言って何になるのだろう。
そんなことを考えながらロープの内側に入る。
内側に入ると、少しだけ、空気が変わった気がした。別に清浄な空気になったわけでも、ドロドロした怨念を感じたというわけでもない。ただ、外と内とは違った。それはわずかな違いだった。友達のうちに遊びに行ったとき、家に入ったときに感じる匂いの違い。それに似ていた。
「お邪魔します」
だから、菫は無意識に言った。
それから、草刈り機のエンジンの出力をあげて、草刈りを始める。
手に伝わってくるむず痒いような振動。時折、石のような硬いものに当たって、歯が、ぎいん。と、音を立てる。
ただ、手を動かしていると、色々な思いが浮かんできた。
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