304 / 392
月夕に落ちる雨の名は
5 距離。おかせてください。 2
しおりを挟む
「違う!」
そう、誤解されたくなかった。だから、話すのを躊躇ったのだ。射るような鈴の目をじっと見返す。
「そうじゃない。俺が。好きだと思うのは。鈴だけだ。
だから、そういうの……ほかの人となんて考えられない」
ここに会いに来たことで、鈴に対してやましいことなどない。新三にはきっぱりと断った。幼い頃も、最近になってからも助けてもらった恩はあるし、夢を見始めてから、黒羽に対する感情は良いほうに傾いているのは間違いない。
だからと言って、鈴に対する思いと黒羽に対する思いは全く違う。菫にとって、恋愛対象として好きなのは鈴だけだ。もちろん、黒羽の番になろうなんて思っていない。
「でも、鈴に気持ち。伝えられたのは。あいつが黒い犬から助けてくれたからだし」
「あれは、正当な契約。あいつは菫さんに『借り』があったから、それを返すことでしか因縁は切れない。あいつはあいつが決めたルールであなたに従った。それに感謝する必要はないんだよ?」
鈴の言っている意味が菫にはよくわからなかった。黒羽にどんなルールがあったとしても、感謝しているのは菫だ。いなり寿司と赤いカップうどんをあげただけで、『借り』というほどの何も菫は黒羽にあげてはいない。
と、考えてから、ふと、あの日、微かに触れた黒羽の唇の感触が頭を過る。あの日、菫は黒羽に手作りのいなり寿司を渡そうとしていた。レシピノートと交換に。けれど、黒羽はあの羽根のようなキスがお礼だと言った。いなり寿司と、命を助けてもらうこと。レシピノートとキス。それが等価に扱われている黒羽のルールがよく分からない。
「あんなもんくらいで。命なんて……」
『あんなもん』の置き換わる言葉は『いなり寿司』のはずだ。けれど、別のことを思い浮かべてしまったことへの少しの罪悪感。黒羽がどう思っていようと、菫が鈴を好きなのは変わらない。それでも、黒羽の行動を不快だと思わなかったことに、また、罪悪感。そうして積もっていく罪悪感に埋もれてしまいそうだ。
「俺、子供の頃のこと、記憶が飛んでることが結構あって。小さい頃さ。身体が弱いってほどじゃないんだけど、よく熱出す子で。親が離婚したショックとかもあって、そのせいで記憶飛んでるのかと思ってたら。熱出すの自体、変なものに会ったからみたいで。
鈴と初めて会った日も。俺、首のない女の人に追いかけられたんだ。こないだ、熱。出した時思い出したんだけど……そのとき助けてくれたの。あいつなんだ……」
鈴は菫の話をただ、聞いていた。
その表情が、最初、無表情から、驚きに。それから、険しいものに変わる。眉根を寄せる目元にも、噛んだ唇にも色がない。
「だから。あいつには俺に『借り』なんて、元々ないんだよ。『借り』があるとしたら俺の方だ。
だけど……っ。それでも、鈴を裏切ろうなんて。思ってない」
鈴の表情が痛々しい。だから、菫が見ている夢のことは言えなかった。あまりに荒唐無稽な話だし、菫自身でさえ、それが本当にあったことかどうかなんてわからない。なによりも、生まれ変わるより前の話なんて、海の泡のようなものに菫が生きる今の人生を変えられたくない。過去がどうで、それがどんなにドラマチックで数奇なものであったとしても、すでに終わってしまっているものなのだ。
「ただ。何か、他に方法がないか。知りたくて……。ほかに。……黒羽が。世界と繋がれる方法があれば」
お人好しと、言われるかもしれない。それでも、生まれ変わるよりも前の話は別として、黒羽を放ってはおけない。
それが、池井菫という人間だった。
そう、誤解されたくなかった。だから、話すのを躊躇ったのだ。射るような鈴の目をじっと見返す。
「そうじゃない。俺が。好きだと思うのは。鈴だけだ。
だから、そういうの……ほかの人となんて考えられない」
ここに会いに来たことで、鈴に対してやましいことなどない。新三にはきっぱりと断った。幼い頃も、最近になってからも助けてもらった恩はあるし、夢を見始めてから、黒羽に対する感情は良いほうに傾いているのは間違いない。
だからと言って、鈴に対する思いと黒羽に対する思いは全く違う。菫にとって、恋愛対象として好きなのは鈴だけだ。もちろん、黒羽の番になろうなんて思っていない。
「でも、鈴に気持ち。伝えられたのは。あいつが黒い犬から助けてくれたからだし」
「あれは、正当な契約。あいつは菫さんに『借り』があったから、それを返すことでしか因縁は切れない。あいつはあいつが決めたルールであなたに従った。それに感謝する必要はないんだよ?」
鈴の言っている意味が菫にはよくわからなかった。黒羽にどんなルールがあったとしても、感謝しているのは菫だ。いなり寿司と赤いカップうどんをあげただけで、『借り』というほどの何も菫は黒羽にあげてはいない。
と、考えてから、ふと、あの日、微かに触れた黒羽の唇の感触が頭を過る。あの日、菫は黒羽に手作りのいなり寿司を渡そうとしていた。レシピノートと交換に。けれど、黒羽はあの羽根のようなキスがお礼だと言った。いなり寿司と、命を助けてもらうこと。レシピノートとキス。それが等価に扱われている黒羽のルールがよく分からない。
「あんなもんくらいで。命なんて……」
『あんなもん』の置き換わる言葉は『いなり寿司』のはずだ。けれど、別のことを思い浮かべてしまったことへの少しの罪悪感。黒羽がどう思っていようと、菫が鈴を好きなのは変わらない。それでも、黒羽の行動を不快だと思わなかったことに、また、罪悪感。そうして積もっていく罪悪感に埋もれてしまいそうだ。
「俺、子供の頃のこと、記憶が飛んでることが結構あって。小さい頃さ。身体が弱いってほどじゃないんだけど、よく熱出す子で。親が離婚したショックとかもあって、そのせいで記憶飛んでるのかと思ってたら。熱出すの自体、変なものに会ったからみたいで。
鈴と初めて会った日も。俺、首のない女の人に追いかけられたんだ。こないだ、熱。出した時思い出したんだけど……そのとき助けてくれたの。あいつなんだ……」
鈴は菫の話をただ、聞いていた。
その表情が、最初、無表情から、驚きに。それから、険しいものに変わる。眉根を寄せる目元にも、噛んだ唇にも色がない。
「だから。あいつには俺に『借り』なんて、元々ないんだよ。『借り』があるとしたら俺の方だ。
だけど……っ。それでも、鈴を裏切ろうなんて。思ってない」
鈴の表情が痛々しい。だから、菫が見ている夢のことは言えなかった。あまりに荒唐無稽な話だし、菫自身でさえ、それが本当にあったことかどうかなんてわからない。なによりも、生まれ変わるより前の話なんて、海の泡のようなものに菫が生きる今の人生を変えられたくない。過去がどうで、それがどんなにドラマチックで数奇なものであったとしても、すでに終わってしまっているものなのだ。
「ただ。何か、他に方法がないか。知りたくて……。ほかに。……黒羽が。世界と繋がれる方法があれば」
お人好しと、言われるかもしれない。それでも、生まれ変わるよりも前の話は別として、黒羽を放ってはおけない。
それが、池井菫という人間だった。
1
お気に入りに追加
30
あなたにおすすめの小説

鬼上司と秘密の同居
なの
BL
恋人に裏切られ弱っていた会社員の小沢 海斗(おざわ かいと)25歳
幼馴染の悠人に助けられ馴染みのBARへ…
そのまま酔い潰れて目が覚めたら鬼上司と呼ばれている浅井 透(あさい とおる)32歳の部屋にいた…
いったい?…どうして?…こうなった?
「お前は俺のそばに居ろ。黙って愛されてればいい」
スパダリ、イケメン鬼上司×裏切られた傷心海斗は幸せを掴むことができるのか…
性描写には※を付けております。

見ぃつけた。
茉莉花 香乃
BL
小学生の時、意地悪されて転校した。高校一年生の途中までは穏やかな生活だったのに、全寮制の学校に転入しなければならなくなった。そこで、出会ったのは…
他サイトにも公開しています

【完結】ぎゅって抱っこして
かずえ
BL
幼児教育学科の短大に通う村瀬一太。訳あって普通の高校に通えなかったため、働いて貯めたお金で二年間だけでもと大学に入学してみたが、学費と生活費を稼ぎつつ学校に通うのは、考えていたよりも厳しい……。
でも、頼れる者は誰もいない。
自分で頑張らなきゃ。
本気なら何でもできるはず。
でも、ある日、金持ちの坊っちゃんと心の中で呼んでいた松島晃に苦手なピアノの課題で助けてもらってから、どうにも自分の心がコントロールできなくなって……。

ハイスペックED~元凶の貧乏大学生と同居生活~
みきち@書籍発売中!
BL
イケメン投資家(24)が、学生時代に初恋拗らせてEDになり、元凶の貧乏大学生(19)と同居する話。
成り行きで添い寝してたらとんでも関係になっちゃう、コメディ風+お料理要素あり♪
イケメン投資家(高見)×貧乏大学生(主人公:凛)

【完結・BL】俺をフッた初恋相手が、転勤して上司になったんだが?【先輩×後輩】
彩華
BL
『俺、そんな目でお前のこと見れない』
高校一年の冬。俺の初恋は、見事に玉砕した。
その後、俺は見事にDTのまま。あっという間に25になり。何の変化もないまま、ごくごくありふれたサラリーマンになった俺。
そんな俺の前に、運命の悪戯か。再び初恋相手は現れて────!?
秘花~王太子の秘密と宿命の皇女~
めぐみ
BL
☆俺はお前を何度も抱き、俺なしではいられぬ淫らな身体にする。宿命という名の数奇な運命に翻弄される王子達☆
―俺はそなたを玩具だと思ったことはなかった。ただ、そなたの身体は俺のものだ。俺はそなたを何度でも抱き、俺なしではいられないような淫らな身体にする。抱き潰すくらいに抱けば、そなたもあの宦官のことなど思い出しもしなくなる。―
モンゴル大帝国の皇帝を祖父に持ちモンゴル帝国直系の皇女を生母として生まれた彼は、生まれながらの高麗の王太子だった。
だが、そんな王太子の運命を激変させる出来事が起こった。
そう、あの「秘密」が表に出るまでは。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる