真鍮とアイオライト 1

司書Y

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月夕に落ちる雨の名は

5 距離。おかせてください。 2

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「違う!」

 そう、誤解されたくなかった。だから、話すのを躊躇ったのだ。射るような鈴の目をじっと見返す。

「そうじゃない。俺が。好きだと思うのは。鈴だけだ。
 だから、そういうの……ほかの人となんて考えられない」

 ここに会いに来たことで、鈴に対してやましいことなどない。新三にはきっぱりと断った。幼い頃も、最近になってからも助けてもらった恩はあるし、夢を見始めてから、黒羽に対する感情は良いほうに傾いているのは間違いない。
 だからと言って、鈴に対する思いと黒羽に対する思いは全く違う。菫にとって、恋愛対象として好きなのは鈴だけだ。もちろん、黒羽の番になろうなんて思っていない。

「でも、鈴に気持ち。伝えられたのは。あいつが黒い犬から助けてくれたからだし」

「あれは、正当な契約。あいつは菫さんに『借り』があったから、それを返すことでしか因縁は切れない。あいつはあいつが決めたルールであなたに従った。それに感謝する必要はないんだよ?」

 鈴の言っている意味が菫にはよくわからなかった。黒羽にどんなルールがあったとしても、感謝しているのは菫だ。いなり寿司と赤いカップうどんをあげただけで、『借り』というほどの何も菫は黒羽にあげてはいない。
 と、考えてから、ふと、あの日、微かに触れた黒羽の唇の感触が頭を過る。あの日、菫は黒羽に手作りのいなり寿司を渡そうとしていた。レシピノートと交換に。けれど、黒羽はあの羽根のようなキスがお礼だと言った。いなり寿司と、命を助けてもらうこと。レシピノートとキス。それが等価に扱われている黒羽のルールがよく分からない。

「あんなもんくらいで。命なんて……」

 『あんなもん』の置き換わる言葉は『いなり寿司』のはずだ。けれど、別のことを思い浮かべてしまったことへの少しの罪悪感。黒羽がどう思っていようと、菫が鈴を好きなのは変わらない。それでも、黒羽の行動を不快だと思わなかったことに、また、罪悪感。そうして積もっていく罪悪感に埋もれてしまいそうだ。

「俺、子供の頃のこと、記憶が飛んでることが結構あって。小さい頃さ。身体が弱いってほどじゃないんだけど、よく熱出す子で。親が離婚したショックとかもあって、そのせいで記憶飛んでるのかと思ってたら。熱出すの自体、変なものに会ったからみたいで。
 鈴と初めて会った日も。俺、首のない女の人に追いかけられたんだ。こないだ、熱。出した時思い出したんだけど……そのとき助けてくれたの。あいつなんだ……」

 鈴は菫の話をただ、聞いていた。
 その表情が、最初、無表情から、驚きに。それから、険しいものに変わる。眉根を寄せる目元にも、噛んだ唇にも色がない。

「だから。あいつには俺に『借り』なんて、元々ないんだよ。『借り』があるとしたら俺の方だ。
 だけど……っ。それでも、鈴を裏切ろうなんて。思ってない」

 鈴の表情が痛々しい。だから、菫が見ている夢のことは言えなかった。あまりに荒唐無稽な話だし、菫自身でさえ、それが本当にあったことかどうかなんてわからない。なによりも、生まれ変わるより前の話なんて、海の泡のようなものに菫が生きる今の人生を変えられたくない。過去がどうで、それがどんなにドラマチックで数奇なものであったとしても、すでに終わってしまっているものなのだ。

「ただ。何か、他に方法がないか。知りたくて……。ほかに。……黒羽が。世界と繋がれる方法があれば」

 お人好しと、言われるかもしれない。それでも、生まれ変わるよりも前の話は別として、黒羽を放ってはおけない。
 それが、池井菫という人間だった。
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