真鍮とアイオライト 1

司書Y

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月夕に落ちる雨の名は

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「おい」

 そんなことを考えていた時だった。ふと、後ろから声をかけられて、菫は振り返った。

「あんた。ここで何をしてる」

 そこにいたのは、70代前半くらいだろうか、背筋のピンと伸びた老人だった。訝し気に菫の顔を凝視している。

「あ。いえ。ただ。社を……」

「あんた。あの電話の人だな」

 そう言われて、菫ははっとした。一度しか話していないからはっきりとはしないが、聞き覚えがある気がする。

「この社の管理がどうのこうのとか電話をしてきた人だろう」

 あからさまに好意的ではない表情で老人は言う。恐らく、この人物は退勤してすぐに電話をしてみた区長さんだろう。

「あ……はい。あの」

「ここに近付かれた困るんだがね。怪我でもされたらこちらのせいになる。ロープが張られていたのわかってるだろう?」

 きっと、変な電話がかかってきたものだから、社を見に来たのだろう。

「あ。の。それはわかってます。すみません。でも……」

「いやね。私たちだってね。ここがこのままでいいと思ってるわけじゃないんだよ? ただねえ。この辺は新規の宅地開発で新しい人たちが多くてね。こんな社の管理に人も金も出せないって言われるんだ。それでも。何年か前までは老人会で掃除くらいはしていんだけどね。あの事故があって……」

 好意的ではない。けれど、意外にも老人はしっかりと、説明をしてくれた。もしかしたら、彼らの中にも、社を放置している負い目はあるのかもしれない。

「直すことができないのなら、子供が近づくと危ないからね。こうして封鎖してるんだ。
 だから、あんたも、不用意に近づかないでほしいんだが?」

 ぎろり。と、その目が菫を睨む。

「あの……俺。市の職員なんです。ええっと。ボランティアで。清掃がしたいんです。せめて、お子さんが遊んでも危なくない程度まで。区からお金とか人とか出してほしいなんていいません。だから、せめて立ち入ることは許して貰えませんか?」

 菫の言葉に、老人の顔はさらに険しくなった。

「そんなことを言われてもねえ。怪我をされるとこっちが……」

「もちろん! すべてこちらの責任で行います。怪我をしようが何があろうがそちらに迷惑になるようなことはしません。
 あの。……祭の元になっている社が。こんな風だと……ネットに紹介されていて。市のイメージダウンになっては困るので」

 この惨状がネットで紹介されているのは事実だ。菫が市の職員だということも本当だし、怪我をしたところで区に責任を取ってもらおうとは思わない。
 ただ、嘘ではないまでも、すらすらと自分の口から出まかせが出たのには自分自身でびっくりしていた。ここに来るまで、そんなことを考えてはいなかったのだ。ただ、ここに、菫まで入れなくなってしまうのは避けたかった。

「いや……しかしね」

「では。市から要請書をもらって……」

 そんなことが可能なのかも分からない。もしかしたら、子供の安全のためならできるのかもしれないけれど、宗教に関するような案件について市が区に口出しするとは思えなかった。だから、これもただのハッタリのつもりだった。

「いや……そこまでしなくても」

 けれど、その言葉で区長らしき老人は勢いを失った。
 きっと、本当は、老人だって、ここがこのままではいけないと思っているのだ。自分たちの生活に支障が出ないなら、なんとかしたいと思っているのに違いなかった。

「じゃあ、掃除だけでもさせていただいていいですか? できる限り、ご迷惑はかけないようにします。お願いします」

 そう言って菫は深々と頭を下げた。
 平凡で目立たない人と違うことなんてしようと思ったこともない自分が、こんなふうに大見えを切る日が来るなんて思ってもみなかった。

「ああ。わかったよ。ただ、最後の氏子衆だった人たちに許可を取ったらだよ? わかったね」

 そう言い残して去る老人に連絡先だけを渡して、菫は社を向きなおった。
 何をしたらいいのかなんて、まだ分からない。菫がやろうとしていることはただの自己満足とか、現実逃避なのかもしれない。
 こんなことをしても、無駄かもしれない。それでも、なんの努力もしないで、自分を差し出すことができるほどに、お人好しでもない。

 ただ、本当にその時が来てしまったら。と、考えるのは怖かった。抱かれることがではない。別に菫は女の子でもなければ、初めてというわけでもないのだ。菫が恐れているのは一つだけ。
 鈴に嫌われたくない。
 嫌われるくらいなら、無くなってしまいたい。

 けれど、そんな菫の個人的な思いと仮にも『命』を天秤にかけるなんてできない。
 何度も、考えは巡るけれど、うまい解決策なんて何も思いつかなかった。

 結局、なんの解決策もないまま、菫は家路に着こうと、振り返った。

「……あ」

 そこには鈴がいた。
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