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月夕に落ちる雨の名は
今は昔 2 こころ 2
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「なんだ。お前らはまた喧嘩か?」
聞きなれた声に女は振り向いた。そこには、待ち侘びていた人がいた。
「黒様」
女は気付いていた。
自分でも分かるほど、声が弾んでいる。
「喧嘩などしておりません」
しれ。っとした顔で、少年が答えた。それから、す。と、姿勢よく頭を下げると、何も言わず女が持っていた野草を取り上げて、どこへともなく去って行ってしまった。
「……反抗期か?」
少年の後姿を見送りながら、呆れたような顔で大狐は言った。
「おかえりなさいませ」
その横顔に女は頭を下げる。
「ん」
女の顔を見て、大狐は答えた。それから、くしゃり。と、その頭を撫でる。
「変わりは……なかったな?」
問いに頷くだけで答えると、大狐は頷いて、両手をその長い髪に伸ばした。何をされるのかと、女は少しだけ身構える。生贄に捧げられたと言っても、彼女がしているのはただの家事手伝いで、大狐が女に触れることは稀だった。触れたとしてもさっきしたように幼い子供をあやすように頭を撫でたりするだけだ。
だから、二人の間には捕食関係も、男女関係もない。
「黒様?」
正面から抱きしめるようにその腕が女の後ろ髪に触れる。大きな体躯に似合わない器用さで、大狐の手がその髪をくるり。と、まとめて何かが髪にささる。
「土産だ」
さっきまで大狐が触れていた髪に触れると、何かが髪にささっていた。固い金属の感触とその先に何か飾りのようなものがついている。見えはしないけれど、それが簪なのだと分かった。
「私……に?」
女は自分が美しくないことくらいは知っていた。
容姿は凡庸だったし、元々の色はともかく、畑仕事や山仕事で日焼けした肌は、お世辞にも綺麗とは言い難い。不潔にしているわけではないけれど、親がいる普通の娘のように見目に気を遣う余裕もなかった。
だから、そんなものを誰かからもらったことなど、はじめてだった。
「こんな高価なものなどいただけません」
女は慌ててそれを髪から外そうとした。そんなものを貰うほどの価値が自分に在るとは思えなかったし、それが似合うような美しさも持ち合わせてはいなかったし、大狐の役に立っているとも思えなかった。
「……お前がいらんというなら、捨てる」
その言葉に女の手が止まる。
「黒様」
「征伸だ」
身体を離して、大狐が言った。
「ゆきのぶ?」
言われている意味が分からず、女はオウム返しのように呟く。
「黒羽乃介征伸。お前の番になる男の名だ。覚えておけ」
大狐が微笑む。
その言葉の意味がようやく分かって、女は頬を染めた。
「……そんな。私などが。黒様の御名をお呼びするなど……」
そんな言葉では隠しきれないほど、女の顔には幸福が溢れていた。人の優しさに支えられた幸福な人生だと思っていたけれど、親兄弟のない寂しさはいつでも感じていた。おそらく、女が一番欲しかったものが、それだった。
「駄目だ」
ぎゅ。と、その腕が女の小さくて細い身体を抱きしめる。とても、温かい。否、熱い。
涙が溢れた。
「征伸と呼べ」
苦しいほどの抱擁と命令口調。けれど、女はそれが大狐の優しさなのだと知っていた。
「……ダメです。黒様の名は誰にも知られたらいけません」
だからこその答え。真名を教えることがどんな意味を持つのか、女は知っていた。女を信頼しているからこそ、大狐はその名を口にしたのだ。女にとって、その名を教えてもらえることだけで十分だった。
「……相変わらず。強情なヤツだな」
抱きしめられた頭の上から苦笑する声が聞こえる。女の言葉が拒絶ではないのだと気付いたのだろう。
「それなら、好きに呼べ。覚えておくだけでいい」
言われるまま素直になれたらいいのに、と、女も思う。世の娘のように愛らしく微笑んで、ありがとう。と、言えれば十分なのに、そうするには女はおろかにはなり切れなかった。
「……あの」
だからといって、嬉しくないはずはない。女も何かを返したかったのだと思う。大狐が喜ぶような何かを。
けれど、その身一つで林へときた女は何ももってはいなかった。その凡庸な自分自身すら、供物として捧げたものだ。
「……これを」
だから、彼女は彼女の持っているただ一つのものを捧げた。
辺りを見回し、そこいらじゅうに咲いている野の花を手折る。
そして、それを、大狐の差し出した。
「……のぶ様」
そう呼んだのは、折角自分に大狐が呉れた『特別』に報いたいと思ったからだ。真名を軽々しく呼ぶことはできない代わりだ。
「ん?」
女が差し出した小さな野の花を受け取って、大狐は彼女の顔を覗き込んだ。
「のぶ様とお呼びしたいです」
じっと見つめられて、女の頬が染まる。
「いいですか?」
「いいだろう。悪くない」
女の問いには、優しい笑顔が返ってきた。満足げな笑みだった。
「のぶ様にはこれを」
花を受け取った大狐の手に、女の手が重なる。そうして、女は口を開いた。
聞きなれた声に女は振り向いた。そこには、待ち侘びていた人がいた。
「黒様」
女は気付いていた。
自分でも分かるほど、声が弾んでいる。
「喧嘩などしておりません」
しれ。っとした顔で、少年が答えた。それから、す。と、姿勢よく頭を下げると、何も言わず女が持っていた野草を取り上げて、どこへともなく去って行ってしまった。
「……反抗期か?」
少年の後姿を見送りながら、呆れたような顔で大狐は言った。
「おかえりなさいませ」
その横顔に女は頭を下げる。
「ん」
女の顔を見て、大狐は答えた。それから、くしゃり。と、その頭を撫でる。
「変わりは……なかったな?」
問いに頷くだけで答えると、大狐は頷いて、両手をその長い髪に伸ばした。何をされるのかと、女は少しだけ身構える。生贄に捧げられたと言っても、彼女がしているのはただの家事手伝いで、大狐が女に触れることは稀だった。触れたとしてもさっきしたように幼い子供をあやすように頭を撫でたりするだけだ。
だから、二人の間には捕食関係も、男女関係もない。
「黒様?」
正面から抱きしめるようにその腕が女の後ろ髪に触れる。大きな体躯に似合わない器用さで、大狐の手がその髪をくるり。と、まとめて何かが髪にささる。
「土産だ」
さっきまで大狐が触れていた髪に触れると、何かが髪にささっていた。固い金属の感触とその先に何か飾りのようなものがついている。見えはしないけれど、それが簪なのだと分かった。
「私……に?」
女は自分が美しくないことくらいは知っていた。
容姿は凡庸だったし、元々の色はともかく、畑仕事や山仕事で日焼けした肌は、お世辞にも綺麗とは言い難い。不潔にしているわけではないけれど、親がいる普通の娘のように見目に気を遣う余裕もなかった。
だから、そんなものを誰かからもらったことなど、はじめてだった。
「こんな高価なものなどいただけません」
女は慌ててそれを髪から外そうとした。そんなものを貰うほどの価値が自分に在るとは思えなかったし、それが似合うような美しさも持ち合わせてはいなかったし、大狐の役に立っているとも思えなかった。
「……お前がいらんというなら、捨てる」
その言葉に女の手が止まる。
「黒様」
「征伸だ」
身体を離して、大狐が言った。
「ゆきのぶ?」
言われている意味が分からず、女はオウム返しのように呟く。
「黒羽乃介征伸。お前の番になる男の名だ。覚えておけ」
大狐が微笑む。
その言葉の意味がようやく分かって、女は頬を染めた。
「……そんな。私などが。黒様の御名をお呼びするなど……」
そんな言葉では隠しきれないほど、女の顔には幸福が溢れていた。人の優しさに支えられた幸福な人生だと思っていたけれど、親兄弟のない寂しさはいつでも感じていた。おそらく、女が一番欲しかったものが、それだった。
「駄目だ」
ぎゅ。と、その腕が女の小さくて細い身体を抱きしめる。とても、温かい。否、熱い。
涙が溢れた。
「征伸と呼べ」
苦しいほどの抱擁と命令口調。けれど、女はそれが大狐の優しさなのだと知っていた。
「……ダメです。黒様の名は誰にも知られたらいけません」
だからこその答え。真名を教えることがどんな意味を持つのか、女は知っていた。女を信頼しているからこそ、大狐はその名を口にしたのだ。女にとって、その名を教えてもらえることだけで十分だった。
「……相変わらず。強情なヤツだな」
抱きしめられた頭の上から苦笑する声が聞こえる。女の言葉が拒絶ではないのだと気付いたのだろう。
「それなら、好きに呼べ。覚えておくだけでいい」
言われるまま素直になれたらいいのに、と、女も思う。世の娘のように愛らしく微笑んで、ありがとう。と、言えれば十分なのに、そうするには女はおろかにはなり切れなかった。
「……あの」
だからといって、嬉しくないはずはない。女も何かを返したかったのだと思う。大狐が喜ぶような何かを。
けれど、その身一つで林へときた女は何ももってはいなかった。その凡庸な自分自身すら、供物として捧げたものだ。
「……これを」
だから、彼女は彼女の持っているただ一つのものを捧げた。
辺りを見回し、そこいらじゅうに咲いている野の花を手折る。
そして、それを、大狐の差し出した。
「……のぶ様」
そう呼んだのは、折角自分に大狐が呉れた『特別』に報いたいと思ったからだ。真名を軽々しく呼ぶことはできない代わりだ。
「ん?」
女が差し出した小さな野の花を受け取って、大狐は彼女の顔を覗き込んだ。
「のぶ様とお呼びしたいです」
じっと見つめられて、女の頬が染まる。
「いいですか?」
「いいだろう。悪くない」
女の問いには、優しい笑顔が返ってきた。満足げな笑みだった。
「のぶ様にはこれを」
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