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月夕に落ちる雨の名は
今は昔 2 こころ 1
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夢を見た。
季節は夏だったように思う。
ただ、林の中はいつも涼しく、無遠慮な太陽に灼かれるようなことはない。そこは、時が止まったような静けさに包まれながらも、同時にいつでもそばに何かがいるような息遣いが聞こえる場所だった。
そこにいる者たちは、女のかつて暮らしていた里の者とは全く違っていた。しかし、優しいのも、人懐こいのも同じで、最初こそその違いに戸惑ったのだが、幾度か月が満ちてかける頃には、女はすっかりそこの暮らしに馴染んでいた。確かに世界の理は違っている。けれど、そこに住まう者たちは、まるて双児のように似ていた。
だから、女がその場所を生まれ育った里と同じくらいに好きになるのに時間は要らなかった。
むしろ、親がないことを可哀想だと思われていた里とは違い、親がないことなど当たり前。家族とは、共に林の中で生きるもの。という考え方は、居心地が良い。
女にはそこでの生活に不満などない。ただ、少しだけ不安があった。
「新三」
林の中で食べられる山菜を摘みながら、女は近くにいた少年に声をかけた。
「なんです?」
ぶっきらぼうに、少年は答える。別に機嫌が悪い訳では無い。少年はいつもこうだ。
「黒様は?」
女の問に一瞬だけ、少年は顔をあげた。それから、何事もなかったかのように、また地面の茸に視線を戻す。
「さあ」
女は答えが返って来ないことを知っていた。それでも、聞かずにはいられなかった。
「そう」
素っ気ないふうを装う。
けれど、内心では心配でならなかった。だから、無駄とわかっていても聞いてしまう。
「お早いお帰りだといいけど……」
里の者たちは皆、善良なものばかりだ。街道が近いと言っても、田舎の名前もない里のことだ。悪さを考えるようなものは殆んどいないし、居たら弾かれる。それが、里山の社会を成り立たせるためのルールだ。
善良な親に育てられた子は善良に育ち、また、善良な子を生む。そうして、里は為政者の手を借りず続いてきた。
けれど、外から来た為政者は違う。
「はやくても、おそくても……」
まるで独り言でも言うように少年は言う。
「あの人はここへ帰ってきます」
それは、今日は必ず明日になるような、当たり前の世界の法則を何も知らない幼い子に説くような自信を感じさせる言葉だった。彼にとってはそれが当たり前なのだと分かる。
しかし、女は不可侵を言外に誓った里人は信じられるが、先ごろ中央から来た領主を信じてはいなかった。生贄を捧げて狐を黙らせろ。などという乱暴な命令を小さな里の、権力に逆らえない里人に命じるような輩を信じられるわけがない。
そもそも、松林の化け狐は里人に悪さをしたりはしない。少し揶揄う程度の悪戯はすることもあったけれど、怪我人すら出たことはない。それどころか、街道を外れて迷ってしまった旅人を道案内してやるような優しい物の怪だと、里のものたちは理解していた。
彼が悪さをする相手はその里のものを困らせる権力者ばかりだ。だから、里人は狐が好きだったし、彼女はその化け狐に仕えると決めた。
ただ、生贄である女を受け入れた後でも、狐は、悪さをやめることはなかった。後ろ暗いことをしている者たちが、化け狐の仕業だと、騒ぎ立てることができないようなやり方で、狐は悪戯を続けていた。きっと、それは、そんな権力者に声をあげて逆らうことができない弱いものたちを救うためなのだと、女は理解した。だからこそ、そばにいると誓った狐になにかないかと心配だったのだ。
「黒様に滅多なことがあるわけない。案ずる必要はありません」
そんな女の気持ちは少年にはお見通しだったようだ。それもそのはずで、彼は姿は少年だったけれど、女が生まれるずっと前から在ったのだ。おそらくは、100年を超えるほど。
そんな少年が女を好いていないことも、女は知っていた。
「うん」
それがどんな思いから出ているのかは知らない。けれど、平穏な暮らしを乱す邪魔者とは思われているかもしれなかった。
季節は夏だったように思う。
ただ、林の中はいつも涼しく、無遠慮な太陽に灼かれるようなことはない。そこは、時が止まったような静けさに包まれながらも、同時にいつでもそばに何かがいるような息遣いが聞こえる場所だった。
そこにいる者たちは、女のかつて暮らしていた里の者とは全く違っていた。しかし、優しいのも、人懐こいのも同じで、最初こそその違いに戸惑ったのだが、幾度か月が満ちてかける頃には、女はすっかりそこの暮らしに馴染んでいた。確かに世界の理は違っている。けれど、そこに住まう者たちは、まるて双児のように似ていた。
だから、女がその場所を生まれ育った里と同じくらいに好きになるのに時間は要らなかった。
むしろ、親がないことを可哀想だと思われていた里とは違い、親がないことなど当たり前。家族とは、共に林の中で生きるもの。という考え方は、居心地が良い。
女にはそこでの生活に不満などない。ただ、少しだけ不安があった。
「新三」
林の中で食べられる山菜を摘みながら、女は近くにいた少年に声をかけた。
「なんです?」
ぶっきらぼうに、少年は答える。別に機嫌が悪い訳では無い。少年はいつもこうだ。
「黒様は?」
女の問に一瞬だけ、少年は顔をあげた。それから、何事もなかったかのように、また地面の茸に視線を戻す。
「さあ」
女は答えが返って来ないことを知っていた。それでも、聞かずにはいられなかった。
「そう」
素っ気ないふうを装う。
けれど、内心では心配でならなかった。だから、無駄とわかっていても聞いてしまう。
「お早いお帰りだといいけど……」
里の者たちは皆、善良なものばかりだ。街道が近いと言っても、田舎の名前もない里のことだ。悪さを考えるようなものは殆んどいないし、居たら弾かれる。それが、里山の社会を成り立たせるためのルールだ。
善良な親に育てられた子は善良に育ち、また、善良な子を生む。そうして、里は為政者の手を借りず続いてきた。
けれど、外から来た為政者は違う。
「はやくても、おそくても……」
まるで独り言でも言うように少年は言う。
「あの人はここへ帰ってきます」
それは、今日は必ず明日になるような、当たり前の世界の法則を何も知らない幼い子に説くような自信を感じさせる言葉だった。彼にとってはそれが当たり前なのだと分かる。
しかし、女は不可侵を言外に誓った里人は信じられるが、先ごろ中央から来た領主を信じてはいなかった。生贄を捧げて狐を黙らせろ。などという乱暴な命令を小さな里の、権力に逆らえない里人に命じるような輩を信じられるわけがない。
そもそも、松林の化け狐は里人に悪さをしたりはしない。少し揶揄う程度の悪戯はすることもあったけれど、怪我人すら出たことはない。それどころか、街道を外れて迷ってしまった旅人を道案内してやるような優しい物の怪だと、里のものたちは理解していた。
彼が悪さをする相手はその里のものを困らせる権力者ばかりだ。だから、里人は狐が好きだったし、彼女はその化け狐に仕えると決めた。
ただ、生贄である女を受け入れた後でも、狐は、悪さをやめることはなかった。後ろ暗いことをしている者たちが、化け狐の仕業だと、騒ぎ立てることができないようなやり方で、狐は悪戯を続けていた。きっと、それは、そんな権力者に声をあげて逆らうことができない弱いものたちを救うためなのだと、女は理解した。だからこそ、そばにいると誓った狐になにかないかと心配だったのだ。
「黒様に滅多なことがあるわけない。案ずる必要はありません」
そんな女の気持ちは少年にはお見通しだったようだ。それもそのはずで、彼は姿は少年だったけれど、女が生まれるずっと前から在ったのだ。おそらくは、100年を超えるほど。
そんな少年が女を好いていないことも、女は知っていた。
「うん」
それがどんな思いから出ているのかは知らない。けれど、平穏な暮らしを乱す邪魔者とは思われているかもしれなかった。
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