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月夕に落ちる雨の名は
1 あいたい 1
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「池井君」
声をかけられて、菫ははっとした。
「大丈夫?」
辺りを見回す。そこは、見慣れた職場だった。
S市立図書館地下。閉架書庫のあるフロアの備品庫兼作業場。壁にはずら。っと、図書館で使用される備品が並んでいる。文具やファイル、ディスプレイ用の飾りやらお話会備品。市内の未就学児童に配る絵本や、リサイクル本。洗剤やタオルやウエットティッシュ。梱包材から、段ボール箱。宝箱やら、カボチャやら、天使の羽根やら、手形付きの障子やら、ありとあらゆるものが詰め込まれた[[rb:混沌 > カオス]]。
夏も冬も寒い地下迷宮に、菫はいた。
「まだ体調戻ってないのに無理に来るから」
菫の体調不良は例のアレだった。世間を騒がせた感染症。遠い世界の話だと思っていたのに、気付かぬうちにどこかでもらってきたのか、同僚のママさん司書さんからもらったのか、結局10日近く休んで、椿にも感染してしまった。なんとか祖母は被害を免れたのだが、一時池井家は完全に機能停止に陥っていた。
何とか熱が下がったのは一昨日。症状も落ち着いたので、ようやく出勤してきたのだが、まったく身体は思い通りになってはくれなかった。ぼーっとしていて伝言は聞き逃すし、身体の節々がまだ痛くて素早く動くこともできない。感染防止のため、カウンターから外れていたからいいようなものの、今も一瞬意識が飛んでいたような気がする。
「……はあ。すみません」
小さくなって菫は答える。
声をかけてくれたのは、小柏だった。菫を見てはため息交じりに文句を言っている。
「もう5時だよ。帰りなさい」
時計を見上げると、言われた通り、5時を回ったところだった。退勤時間だ。
「……はあ。わかりました」
正直、素直に従うほかない。いつもより何倍も疲れているし、居眠り(?)しているくらいなら、帰らないとほかの人に迷惑をかけてしまう。
「素直だね。いい傾向だ。こちとら『接客業』だからね。誰かに感染つすくらいなら、いないほうがいい。
あ。ところで、北島君は……」
小柏の言葉に菫は思わずはっ。と、顔を上げた。
「え? あ。感染しちゃった?」
菫の過剰な反応に少し驚いた様子で、小柏が聞いてくる。
「や。いえ。感染してないです」
菫を家まで送ってくれたというあの日以来、鈴とは会っていない。もちろん、寝込んでから最初の数日はそれどころではなかった。鈴からは辛かったら返事はいらないです。と、断ったうえで、菫を心配するメッセージは届いていたが、既読をつけるのがやっとで、返事ができたのは熱が下がった日だった。
家まで連れて帰ってくれたお礼と、返事ができなかった謝罪を送ると『きにしないで』と、答えが返ってきたけれど、何故かすごくそっけない感じがした。ある意味、鈴にはそれが平常運転のはずだ。それなのに、不安になる。もしかしたら、熱が出ていた時、何か変なことを言ってしまったのかもしれない。
「……俺。かえります」
何か言いたげにしている小柏が口を開く前に、菫は立ち上がった。何を聞かれても、上手く答えられないし、そんな自分が嫌になりそうな気がしたからだ。
「……ん。そうしたらいい。おつかれ」
小柏は何も言わなかった。
この人が苦手だと思うことは多い。けれど、嫌いにならないのは、こんなときには致命的な質問をしたりしないからだ。多分、わかっているけれど、聞かないし、言わない。彼女はそんな人だった。
声をかけられて、菫ははっとした。
「大丈夫?」
辺りを見回す。そこは、見慣れた職場だった。
S市立図書館地下。閉架書庫のあるフロアの備品庫兼作業場。壁にはずら。っと、図書館で使用される備品が並んでいる。文具やファイル、ディスプレイ用の飾りやらお話会備品。市内の未就学児童に配る絵本や、リサイクル本。洗剤やタオルやウエットティッシュ。梱包材から、段ボール箱。宝箱やら、カボチャやら、天使の羽根やら、手形付きの障子やら、ありとあらゆるものが詰め込まれた[[rb:混沌 > カオス]]。
夏も冬も寒い地下迷宮に、菫はいた。
「まだ体調戻ってないのに無理に来るから」
菫の体調不良は例のアレだった。世間を騒がせた感染症。遠い世界の話だと思っていたのに、気付かぬうちにどこかでもらってきたのか、同僚のママさん司書さんからもらったのか、結局10日近く休んで、椿にも感染してしまった。なんとか祖母は被害を免れたのだが、一時池井家は完全に機能停止に陥っていた。
何とか熱が下がったのは一昨日。症状も落ち着いたので、ようやく出勤してきたのだが、まったく身体は思い通りになってはくれなかった。ぼーっとしていて伝言は聞き逃すし、身体の節々がまだ痛くて素早く動くこともできない。感染防止のため、カウンターから外れていたからいいようなものの、今も一瞬意識が飛んでいたような気がする。
「……はあ。すみません」
小さくなって菫は答える。
声をかけてくれたのは、小柏だった。菫を見てはため息交じりに文句を言っている。
「もう5時だよ。帰りなさい」
時計を見上げると、言われた通り、5時を回ったところだった。退勤時間だ。
「……はあ。わかりました」
正直、素直に従うほかない。いつもより何倍も疲れているし、居眠り(?)しているくらいなら、帰らないとほかの人に迷惑をかけてしまう。
「素直だね。いい傾向だ。こちとら『接客業』だからね。誰かに感染つすくらいなら、いないほうがいい。
あ。ところで、北島君は……」
小柏の言葉に菫は思わずはっ。と、顔を上げた。
「え? あ。感染しちゃった?」
菫の過剰な反応に少し驚いた様子で、小柏が聞いてくる。
「や。いえ。感染してないです」
菫を家まで送ってくれたというあの日以来、鈴とは会っていない。もちろん、寝込んでから最初の数日はそれどころではなかった。鈴からは辛かったら返事はいらないです。と、断ったうえで、菫を心配するメッセージは届いていたが、既読をつけるのがやっとで、返事ができたのは熱が下がった日だった。
家まで連れて帰ってくれたお礼と、返事ができなかった謝罪を送ると『きにしないで』と、答えが返ってきたけれど、何故かすごくそっけない感じがした。ある意味、鈴にはそれが平常運転のはずだ。それなのに、不安になる。もしかしたら、熱が出ていた時、何か変なことを言ってしまったのかもしれない。
「……俺。かえります」
何か言いたげにしている小柏が口を開く前に、菫は立ち上がった。何を聞かれても、上手く答えられないし、そんな自分が嫌になりそうな気がしたからだ。
「……ん。そうしたらいい。おつかれ」
小柏は何も言わなかった。
この人が苦手だと思うことは多い。けれど、嫌いにならないのは、こんなときには致命的な質問をしたりしないからだ。多分、わかっているけれど、聞かないし、言わない。彼女はそんな人だった。
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