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栞
4 やくそくのあかし 5
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菫の押し花を梳き込んだすみれ色のリボンをかけた和紙の栞。菫が小学校の頃に作って、持って帰って以来どこに行ったか分からなくなっていた栞。先生が『感謝を込めて誰かに贈りなさい』と言っていたのは覚えているから、きっと祖母に渡したのだと思いこんでいたもの。
それが何故ここに、このページに挟まっているのか、その意味が、ようやく分かった。
きっと、それは夢ではない。ただの妄想でもない。
夢の中でははっきりとしなかったその人物の印象が、朧気ながら黒羽の姿に重なる。
「……あって……た」
忘れていただけで、菫は黒羽に会っていた。それを忘れていることを黒羽は指摘しようとはしなかった。
「や。ちが……う?」
ふと、その矛盾に思い至って、菫は頭を振った。
初めて会ったのだと菫が思っていたあの冬の夜。コンビニの帰り。あったことがあるのを黒羽は指摘しなかった。それは間違いない。それどころか、夢の中で黒羽は『わすれろ』と、言っていた。それは、きっと、記憶違いではないし、きっと本当にあったことなのだと思う。
問題はそこではない。
覚えているか?
黒羽はそう聞いた。菫は思う。よく高熱を出していた菫。その度に、曖昧になる記憶。しかしたら、あの公園の日の前にも会っていたのだとしたら。
「……どして?」
考えようとすると、頭が割れるように痛んだ。
「こら。菫。もう、横になれ。食いたいものがあるなら、用意してやるから」
椿に促されて、菫は横になった。
形になりかけているのに、熱のせいなのか考えがまとまらなかった。頭が混乱して、色々なことが嵐のように浮かんでは消えた。
「……にいちゃん」
菫に布団をかけ直そうとした椿の手を握る。
「……すずは?」
酷く心細い。自分が知らない自分がいるのが怖い。逃げ出したいけれど、身体はままならなくて、鈴の顔が見たかった。
「お前を送り届けてから帰ったぞ」
当たり前のことを言われているのだと理解はしているけれど、不安で堪らない。堪える間もなく涙が溢れてきて、菫は片手で顔を覆った。
「す……菫? おい。どうした? 苦しいのか?」
おろおろ。と、困り果てた椿の声が聞こえる。
「べ。別に兄ちゃんが追い返したわけじゃないんだぞ? ただ、感染症の可能性が高いから、さすがにあいつをうちにいさせるわけにはいかないだろう?」
椿が困っていることも、椿が言っていることが正しいことも分かっている。それでも、涙が止まらない。熱が高いことを差し引いても、自分がおかしいことは分かっていた。
「……帰りたくないと、あいつも言っていた。お前のそばにいたいって言ってくれていたぞ? でもな。人様の大事なご子息に看病させるわけにはいかない。あいつはまだ、親御さんの保護下にある学生なんだからな? 心細いなら、兄ちゃんがずっと一緒にいてやるから、わかってくれ」
そう言って、椿は手をぎゅ。と、握ってくれた。
「……にいちゃ……ん」
頭がぼー。っとしてくる。まるで、幼いころに戻ったようだ。『おかあさんは?』と、問う菫に同じようにたくさん言い訳してから、兄はそばにいてくれた。兄も辛かったと思う。だから、菫も、母のことを言うことはなくなった。
「俺……やくそく……したんだ」
そして、代わりに言った。何を言っているのか、もう、菫自身にもよくわかっていなかった。
「こんど……あったら……おいなりさん……」
呟いた自分の言葉が、暗闇に吸い込まれていくようだった。目を閉じたら、また、忘れているのだろうかと、頭の片隅で思う。忘れてしまいたいという気持ちと、忘れてしまいたくないという気持ちがせめぎ合う。
次目覚めたとき、その記憶があるのか、ないのかで、自分の何かが全て書き換わってしまう。
菫が最後に考えたのはそんなことだった。
それが何故ここに、このページに挟まっているのか、その意味が、ようやく分かった。
きっと、それは夢ではない。ただの妄想でもない。
夢の中でははっきりとしなかったその人物の印象が、朧気ながら黒羽の姿に重なる。
「……あって……た」
忘れていただけで、菫は黒羽に会っていた。それを忘れていることを黒羽は指摘しようとはしなかった。
「や。ちが……う?」
ふと、その矛盾に思い至って、菫は頭を振った。
初めて会ったのだと菫が思っていたあの冬の夜。コンビニの帰り。あったことがあるのを黒羽は指摘しなかった。それは間違いない。それどころか、夢の中で黒羽は『わすれろ』と、言っていた。それは、きっと、記憶違いではないし、きっと本当にあったことなのだと思う。
問題はそこではない。
覚えているか?
黒羽はそう聞いた。菫は思う。よく高熱を出していた菫。その度に、曖昧になる記憶。しかしたら、あの公園の日の前にも会っていたのだとしたら。
「……どして?」
考えようとすると、頭が割れるように痛んだ。
「こら。菫。もう、横になれ。食いたいものがあるなら、用意してやるから」
椿に促されて、菫は横になった。
形になりかけているのに、熱のせいなのか考えがまとまらなかった。頭が混乱して、色々なことが嵐のように浮かんでは消えた。
「……にいちゃん」
菫に布団をかけ直そうとした椿の手を握る。
「……すずは?」
酷く心細い。自分が知らない自分がいるのが怖い。逃げ出したいけれど、身体はままならなくて、鈴の顔が見たかった。
「お前を送り届けてから帰ったぞ」
当たり前のことを言われているのだと理解はしているけれど、不安で堪らない。堪える間もなく涙が溢れてきて、菫は片手で顔を覆った。
「す……菫? おい。どうした? 苦しいのか?」
おろおろ。と、困り果てた椿の声が聞こえる。
「べ。別に兄ちゃんが追い返したわけじゃないんだぞ? ただ、感染症の可能性が高いから、さすがにあいつをうちにいさせるわけにはいかないだろう?」
椿が困っていることも、椿が言っていることが正しいことも分かっている。それでも、涙が止まらない。熱が高いことを差し引いても、自分がおかしいことは分かっていた。
「……帰りたくないと、あいつも言っていた。お前のそばにいたいって言ってくれていたぞ? でもな。人様の大事なご子息に看病させるわけにはいかない。あいつはまだ、親御さんの保護下にある学生なんだからな? 心細いなら、兄ちゃんがずっと一緒にいてやるから、わかってくれ」
そう言って、椿は手をぎゅ。と、握ってくれた。
「……にいちゃ……ん」
頭がぼー。っとしてくる。まるで、幼いころに戻ったようだ。『おかあさんは?』と、問う菫に同じようにたくさん言い訳してから、兄はそばにいてくれた。兄も辛かったと思う。だから、菫も、母のことを言うことはなくなった。
「俺……やくそく……したんだ」
そして、代わりに言った。何を言っているのか、もう、菫自身にもよくわかっていなかった。
「こんど……あったら……おいなりさん……」
呟いた自分の言葉が、暗闇に吸い込まれていくようだった。目を閉じたら、また、忘れているのだろうかと、頭の片隅で思う。忘れてしまいたいという気持ちと、忘れてしまいたくないという気持ちがせめぎ合う。
次目覚めたとき、その記憶があるのか、ないのかで、自分の何かが全て書き換わってしまう。
菫が最後に考えたのはそんなことだった。
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