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栞
4 やくそくのあかし 1
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そこが、どこかなんて、俺には全く分からなかった。ただ、走って走って走って、逃げ込んだ先にそれはあった。
それは、小さな赤い鳥居と、石造りの小さな社だった。本当に小さい。鳥居は大人の背丈より少しだけ大きいくらいだし、社は俺が抱えられるくらいの大きさだった。
大きな木の下にそれはあった。
こんな小さな社は、田舎の町ではどこでもよく見られた。名前も知らないどこかの神社の分社。きっと、その社も、どこかの神社から、土地の者が分霊をいただき、祀ったものだ。けれど、その時の俺にはそんなことは何も分かっていなかった。
分かっていなかったはずなのに、そこは何故か、ほかより少しだけ明るく、ほんのりと温かな感じがした。
だから、逃げ込んだ。と言うわけではない。
ただ、無我夢中で走って、走れなくなった場所がそこだったというだけ。
何の木なのは知らない。もう、息が切れて走れなくなった俺は鳥居の向こう側、社の後ろ。大木のうろの中に逃げ込んだ。そんなところに逃げ込んでもすぐに見つかってしまうことは分かっていたし、ちゃんと隠れられている気すらしなかった。でも、もう、息苦しくて、足がつって逃げることはできそうになかったし、身体が動いたとしてもどこに逃げていいのか分からなかった。自分の家に帰ろうという発想も、何故か全くなかった。
ずる。べちゃ。
ずる。べちゃ。
あの足音が聞こえる。
うろの中に小さく丸まって、俺は耳を塞いだ。耳を塞ぐと、自分の鼓動と噛み合わない歯の根が鳴る音と荒い呼吸の音が大きくなる。
けれど、耳を塞いでも足音は聞こえなくなったりはしなかった。
ずる。べちゃ。
ずる。べちゃ。
ぼうや。
それどころか、あの女の人の声が聞こえる。
かくれていても。
わかるのよ。
その言葉に、俺はびくり。と、身体を竦ませる。逃げられるとも、隠れられるとも思ってはいない。それでも、どうにでもなれとか、やけくそになるとか、諦めるとか、そんな気持ちも湧いては来ない。ただ、怖くて、怖くて、それでも、助かりたかった。
どこにかくれたって、見えるのよ。
言葉の意味が、この時の俺にはわかっていなかった。
涙でぼやける視界。おそるおそるうろの外をみやると、ぽっかりと開いた穴に縁どられた外が見える。紙垂の垂れた注連縄。普通に車が通るような片側一車線の道路が避けるように通る少しだけ開けた広場の中に社と大木。その向こうには何でもない住宅街。もう、太陽が沈んだ名残の光は一つも残っていない空。黒い。住宅や街灯の明かりはまるで、闇に滲んで吸い込まれていくように見えた。
きれいな。
きれいな。
すみれ色。
にゅ。と、その穴の縁から現れる。二つの瞳。周りの明かりは全部闇に吸われてしまって、暗いはずなのに、その瞳がどぶ川の水のように濁っているのが俺にはわかった。
「……や。だ」
もう、動くのは無理だった。
声が掠れて、助けを呼ぶこともできなかった。
ただ、涙が零れた。
お父さんにも、お母さんにも、誰にも望まれていなくても、生きていたいと思った。
「たすけて」
突然。
視界が全部赤く染まった。
何が起こったか分からなかった。
けれど、ひとつだけ、分かったことがある。
その赤い炎は、温かかった。それは、きっと、自分を傷つけないと、何故か俺にはわかっていた。
それは、小さな赤い鳥居と、石造りの小さな社だった。本当に小さい。鳥居は大人の背丈より少しだけ大きいくらいだし、社は俺が抱えられるくらいの大きさだった。
大きな木の下にそれはあった。
こんな小さな社は、田舎の町ではどこでもよく見られた。名前も知らないどこかの神社の分社。きっと、その社も、どこかの神社から、土地の者が分霊をいただき、祀ったものだ。けれど、その時の俺にはそんなことは何も分かっていなかった。
分かっていなかったはずなのに、そこは何故か、ほかより少しだけ明るく、ほんのりと温かな感じがした。
だから、逃げ込んだ。と言うわけではない。
ただ、無我夢中で走って、走れなくなった場所がそこだったというだけ。
何の木なのは知らない。もう、息が切れて走れなくなった俺は鳥居の向こう側、社の後ろ。大木のうろの中に逃げ込んだ。そんなところに逃げ込んでもすぐに見つかってしまうことは分かっていたし、ちゃんと隠れられている気すらしなかった。でも、もう、息苦しくて、足がつって逃げることはできそうになかったし、身体が動いたとしてもどこに逃げていいのか分からなかった。自分の家に帰ろうという発想も、何故か全くなかった。
ずる。べちゃ。
ずる。べちゃ。
あの足音が聞こえる。
うろの中に小さく丸まって、俺は耳を塞いだ。耳を塞ぐと、自分の鼓動と噛み合わない歯の根が鳴る音と荒い呼吸の音が大きくなる。
けれど、耳を塞いでも足音は聞こえなくなったりはしなかった。
ずる。べちゃ。
ずる。べちゃ。
ぼうや。
それどころか、あの女の人の声が聞こえる。
かくれていても。
わかるのよ。
その言葉に、俺はびくり。と、身体を竦ませる。逃げられるとも、隠れられるとも思ってはいない。それでも、どうにでもなれとか、やけくそになるとか、諦めるとか、そんな気持ちも湧いては来ない。ただ、怖くて、怖くて、それでも、助かりたかった。
どこにかくれたって、見えるのよ。
言葉の意味が、この時の俺にはわかっていなかった。
涙でぼやける視界。おそるおそるうろの外をみやると、ぽっかりと開いた穴に縁どられた外が見える。紙垂の垂れた注連縄。普通に車が通るような片側一車線の道路が避けるように通る少しだけ開けた広場の中に社と大木。その向こうには何でもない住宅街。もう、太陽が沈んだ名残の光は一つも残っていない空。黒い。住宅や街灯の明かりはまるで、闇に滲んで吸い込まれていくように見えた。
きれいな。
きれいな。
すみれ色。
にゅ。と、その穴の縁から現れる。二つの瞳。周りの明かりは全部闇に吸われてしまって、暗いはずなのに、その瞳がどぶ川の水のように濁っているのが俺にはわかった。
「……や。だ」
もう、動くのは無理だった。
声が掠れて、助けを呼ぶこともできなかった。
ただ、涙が零れた。
お父さんにも、お母さんにも、誰にも望まれていなくても、生きていたいと思った。
「たすけて」
突然。
視界が全部赤く染まった。
何が起こったか分からなかった。
けれど、ひとつだけ、分かったことがある。
その赤い炎は、温かかった。それは、きっと、自分を傷つけないと、何故か俺にはわかっていた。
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