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栞
2 熱病 4
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父と母はあまり会話をしなった。
父はいつも仕事で忙しくて、なかなか家に帰ってこなかったし、俺や兄ちゃんをどこかに連れて行ってくれるようなことも殆どなかった。けれど、代わりに俺たちを怒ったこともない。
母は、所謂普通のお母さんだったと思う。食事を作ってくれるし、洗濯や掃除もしてくれる。学校の授業参観や運動会などの行事にも来てくれるし、クリスマスや誕生日のプレゼントも買ってくれた。ただ、俺の話を必要最低限にしか聞いてはくれなかったように思う。兄が学校であったことを話すと、相槌を打ちながら聞いているのに、俺が話を始めると早くご飯を食べちゃいなさい。と、言われる。母が俺に興味がないのだと気付いたのは、小学校に上がるよりも前だった。
そんな父と母が酷い喧嘩をしたのは、俺が小学校4年生の時だ。
喧嘩。といっても、母が父を一方的に詰って、責め立てて、泣きわめいていた。原因はよくわからない。特に知りたいとも思わない。母が俺に興味がないように、その頃には俺も母や父に興味を失っていた。
その頃には、俺にばかり冷たくする母のことを兄は酷く嫌っていた。父母の喧嘩を始めると、『そんなもん見るな』と、俺を自分の部屋に避難させてくれた。母の尋常ならざる形相に怯える俺を優しく抱きしめて、『菫は何にも心配しなくていいからな』と、言ってくれた。
そんな母がひとしきり父に感情をぶつけてから、兄の部屋に来たのは、多分、もう外が暗くなり始める頃だ。窓から差し込む夕日に照らされた母の顔は、ホラー映画の殺人鬼か般若のようだったと覚えている。
部屋に入ってくるなり兄の腕を掴んで、『行くよ』という母。兄は多分、そうなると覚悟をしていたのだろう。『行くぞ。菫』と、俺の手を引く。俺は声を出すこともできなかった。怖かったんだ。悪鬼のような母が。ではない。ただ母がこの後言うだろう一言の言葉が。けれど、結局その後に俺はその言葉をほかでもない母の口から聞かされた。
『菫はいらない。母さんが連れてくのは、椿だけ。菫は父さんといなさい』
言葉の途中で、俺は逃げ出した。後ろから兄が俺の名前を呼ぶのが聞こえる。その後、兄はすごく汚い言葉でお母さんを罵倒した。自分のために母に反抗してくれた兄には今も感謝している。けれど、聞いてしまった言葉はなかったことにはならなかった。
だから、あの日。俺は公園にいた。
いらない。
という言葉が、ぐるぐる。と、心を回り続けていた。
小さな女の子に声をかけたのは、自分自身が心細かったからだ。彼女が欲しいだろう言葉をあげたのは、本当は自分が優しくされたかったからだ。誰かに優しくしたら、その優しさは自分にいつか戻ってくるのだと、信じていなければ絶望してしまいそうだった。
けれど、帰っていくその子の姿が公園の入り口の生け垣の影に消えると、途端に悲しくなった。すぐに家に帰りたくなったけれど、自分がいなければ少なくとも兄は母と一緒に行けるのだと思うと、帰る気にはなれなかった。帰って、父と二人きりになった家で一生、あの誰にも興味がない父の背中に言葉を投げ続けなければいけないのだと、宣告されるのが嫌だった。
だから、公園のブランコに座って、ただ、星を見ていた。
父はいつも仕事で忙しくて、なかなか家に帰ってこなかったし、俺や兄ちゃんをどこかに連れて行ってくれるようなことも殆どなかった。けれど、代わりに俺たちを怒ったこともない。
母は、所謂普通のお母さんだったと思う。食事を作ってくれるし、洗濯や掃除もしてくれる。学校の授業参観や運動会などの行事にも来てくれるし、クリスマスや誕生日のプレゼントも買ってくれた。ただ、俺の話を必要最低限にしか聞いてはくれなかったように思う。兄が学校であったことを話すと、相槌を打ちながら聞いているのに、俺が話を始めると早くご飯を食べちゃいなさい。と、言われる。母が俺に興味がないのだと気付いたのは、小学校に上がるよりも前だった。
そんな父と母が酷い喧嘩をしたのは、俺が小学校4年生の時だ。
喧嘩。といっても、母が父を一方的に詰って、責め立てて、泣きわめいていた。原因はよくわからない。特に知りたいとも思わない。母が俺に興味がないように、その頃には俺も母や父に興味を失っていた。
その頃には、俺にばかり冷たくする母のことを兄は酷く嫌っていた。父母の喧嘩を始めると、『そんなもん見るな』と、俺を自分の部屋に避難させてくれた。母の尋常ならざる形相に怯える俺を優しく抱きしめて、『菫は何にも心配しなくていいからな』と、言ってくれた。
そんな母がひとしきり父に感情をぶつけてから、兄の部屋に来たのは、多分、もう外が暗くなり始める頃だ。窓から差し込む夕日に照らされた母の顔は、ホラー映画の殺人鬼か般若のようだったと覚えている。
部屋に入ってくるなり兄の腕を掴んで、『行くよ』という母。兄は多分、そうなると覚悟をしていたのだろう。『行くぞ。菫』と、俺の手を引く。俺は声を出すこともできなかった。怖かったんだ。悪鬼のような母が。ではない。ただ母がこの後言うだろう一言の言葉が。けれど、結局その後に俺はその言葉をほかでもない母の口から聞かされた。
『菫はいらない。母さんが連れてくのは、椿だけ。菫は父さんといなさい』
言葉の途中で、俺は逃げ出した。後ろから兄が俺の名前を呼ぶのが聞こえる。その後、兄はすごく汚い言葉でお母さんを罵倒した。自分のために母に反抗してくれた兄には今も感謝している。けれど、聞いてしまった言葉はなかったことにはならなかった。
だから、あの日。俺は公園にいた。
いらない。
という言葉が、ぐるぐる。と、心を回り続けていた。
小さな女の子に声をかけたのは、自分自身が心細かったからだ。彼女が欲しいだろう言葉をあげたのは、本当は自分が優しくされたかったからだ。誰かに優しくしたら、その優しさは自分にいつか戻ってくるのだと、信じていなければ絶望してしまいそうだった。
けれど、帰っていくその子の姿が公園の入り口の生け垣の影に消えると、途端に悲しくなった。すぐに家に帰りたくなったけれど、自分がいなければ少なくとも兄は母と一緒に行けるのだと思うと、帰る気にはなれなかった。帰って、父と二人きりになった家で一生、あの誰にも興味がない父の背中に言葉を投げ続けなければいけないのだと、宣告されるのが嫌だった。
だから、公園のブランコに座って、ただ、星を見ていた。
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