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栞
2 熱病 3
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決めていたのだが、何かが心に引っかかっている。
あの日。レシピノートに挟まっていた菫の栞。今も、同じ場所に挟まっている。そのページを閉じても、栞を捨ててもいけない気がした。
ヴーヴヴ。
そんなことを考えていると、まるで、見透かしたようにスマートフォンがLINEメッセージの着信を知らせてきた。
もしかして、図書館出ました?
画面を確認すると、鈴からのメッセージだった。既読をつけたから、返信してきたのだろうか。菫は思う。
鈴。なった。
きをつけて。すぐいきます。
小さい頃、鈴にあげた鈴。鈴はそれをずっと大切にしてくれていた。ストラップは擦り切れて変えたらしいけれど、ピカピカに光る真鍮の鈴と青い石はそのまま残っている。菫が人ならざる者に会うと、それは鳴るのだそうだ。
ちょっと、具合悪くて、これから帰るところ。
変なのはいないよ?
画面をタップして、返事してからふと、視線を上にあげると、目の前に足があった。人がいたわけではない、足だけがあった。普通ならスマートフォンを取り落として逃げ出すような場面だ。けれど、それは、菫にとって珍しくもなんともない光景だった。黒犬の時に助けてくれたにや男の足だ。ただ、昼間に出てくるのは珍しい。足だけになってからはかなり薄くなってしまって、太陽光の下では見えにくくなっているのだ。
あ。にや男がいた。
きっと。これ。
だから、菫は鈴にそうメッセージを送る。それが、そこに在る意味を、菫は深く考えてはいなかった。いや、明らかにぼーっとしている頭では深くは考えられなかった。
来ると、感染しちゃうかもしれないから、来ない方がいい。
帰ったら連絡するよ。
頭がガンガン。と、痛みだす。息苦しさは相変わらずで、酸欠の魚みたいに口をぱくぱくさせても、酸素がいきわたっている感じがしない。目の前にはフィルターがかかったようで、やけに暗い。
まるで、夜。だ。
肩で息をしながら、地面の足を見る。それは、さっきよりもずっと、はっきり見えた。
ヴーヴヴ。
LINEの着信音。
画面に視線を向けると、鈴からのメッセージ。
そこをはなれ
その文字の意味を理解する前に、がん。と、思いっきり何かが足にぶつかってきた。いつもなら、それくらいどうということもないのだろうけれど、身体が言うことを聞いてくれなくて、無様に尻もちをついてしまう。その拍子に持っていたスマートフォンがアスファルトに投げ出された。
「……あ」
何が起こったのかよくわからない。足に当たってくるようなものがあっただろうかと考えたあと、視界の端にちらり。と、にや男の足が見えて、『あ。これだ』と、呑気に考える。それでも、それが何故ぶつかってきたのかまで、菫の思考は動いてはくれなかった。
ヴーヴヴ。
少し離れた場所で、また、LINEの着信音がした。のろのろと上半身を起こして、見回すと、スマートフォンは少し離れた地面に落ちていた。着信を知らせる緑色のランプが点滅している。
そして、その向こうに、見えた。
「な……に?」
そこにはやはり、足があった。
ねえ。
声がする。それは、スマートフォンの方ではなく、別の場所からだった。菫が尻もちをついている背後から、聞こえている。
その声にはどこかで聞き覚えがあった。もちろん、口がないにや男ではない。男の声ですらない。
ねえ。
もう一度、声が聞こえる。目の前には足。にや男とは違う。素足。恐らくは女性の細い足首。断面の赤が生々しい。それが意味することを考えようとして、菫は頭の痛みにこめかみを抑えた。
考えたくない。考えたくない。
考えてはいけない。
見ていたくなくて、目を閉じると、何かの匂い。この匂いにも覚えがある。菫は思う。
思い出すのは、あの日だ。小学校の時、学校で飼っていたウサギがハクビシンに襲われた。その時の小屋の匂い。
閉じた瞼の裏が赤く染まる。
助けて。
かちかち。と、歯の根が鳴る音が聞こえた。それが、自分の歯が立てる音なのだと気付くのに数秒。この感情には覚えがある。
助けてよ。
振り向いて、それが何なのか確認するのが怖い。いや、確認したくない。絶対にしたくない。
「……怖い」
これは、きっと、ダメなやつだ。
けれど、今の菫ではきっと逃げ切れない。
「……鈴。助け……」
声が震える。
その瞬間に、思い出した。
黒い犬に追われた日。鈴はボロボロになっても助けてくれた。また、鈴をそんな目に合わせるのだろうか。
そんな方法しかないんだろうか。
『呼べ』
耳元で声が聞こえた気がした。それは、懐かしい声だった。
「……ゆきのぶ」
意識があったのはそこまでだった。
あの日。レシピノートに挟まっていた菫の栞。今も、同じ場所に挟まっている。そのページを閉じても、栞を捨ててもいけない気がした。
ヴーヴヴ。
そんなことを考えていると、まるで、見透かしたようにスマートフォンがLINEメッセージの着信を知らせてきた。
もしかして、図書館出ました?
画面を確認すると、鈴からのメッセージだった。既読をつけたから、返信してきたのだろうか。菫は思う。
鈴。なった。
きをつけて。すぐいきます。
小さい頃、鈴にあげた鈴。鈴はそれをずっと大切にしてくれていた。ストラップは擦り切れて変えたらしいけれど、ピカピカに光る真鍮の鈴と青い石はそのまま残っている。菫が人ならざる者に会うと、それは鳴るのだそうだ。
ちょっと、具合悪くて、これから帰るところ。
変なのはいないよ?
画面をタップして、返事してからふと、視線を上にあげると、目の前に足があった。人がいたわけではない、足だけがあった。普通ならスマートフォンを取り落として逃げ出すような場面だ。けれど、それは、菫にとって珍しくもなんともない光景だった。黒犬の時に助けてくれたにや男の足だ。ただ、昼間に出てくるのは珍しい。足だけになってからはかなり薄くなってしまって、太陽光の下では見えにくくなっているのだ。
あ。にや男がいた。
きっと。これ。
だから、菫は鈴にそうメッセージを送る。それが、そこに在る意味を、菫は深く考えてはいなかった。いや、明らかにぼーっとしている頭では深くは考えられなかった。
来ると、感染しちゃうかもしれないから、来ない方がいい。
帰ったら連絡するよ。
頭がガンガン。と、痛みだす。息苦しさは相変わらずで、酸欠の魚みたいに口をぱくぱくさせても、酸素がいきわたっている感じがしない。目の前にはフィルターがかかったようで、やけに暗い。
まるで、夜。だ。
肩で息をしながら、地面の足を見る。それは、さっきよりもずっと、はっきり見えた。
ヴーヴヴ。
LINEの着信音。
画面に視線を向けると、鈴からのメッセージ。
そこをはなれ
その文字の意味を理解する前に、がん。と、思いっきり何かが足にぶつかってきた。いつもなら、それくらいどうということもないのだろうけれど、身体が言うことを聞いてくれなくて、無様に尻もちをついてしまう。その拍子に持っていたスマートフォンがアスファルトに投げ出された。
「……あ」
何が起こったのかよくわからない。足に当たってくるようなものがあっただろうかと考えたあと、視界の端にちらり。と、にや男の足が見えて、『あ。これだ』と、呑気に考える。それでも、それが何故ぶつかってきたのかまで、菫の思考は動いてはくれなかった。
ヴーヴヴ。
少し離れた場所で、また、LINEの着信音がした。のろのろと上半身を起こして、見回すと、スマートフォンは少し離れた地面に落ちていた。着信を知らせる緑色のランプが点滅している。
そして、その向こうに、見えた。
「な……に?」
そこにはやはり、足があった。
ねえ。
声がする。それは、スマートフォンの方ではなく、別の場所からだった。菫が尻もちをついている背後から、聞こえている。
その声にはどこかで聞き覚えがあった。もちろん、口がないにや男ではない。男の声ですらない。
ねえ。
もう一度、声が聞こえる。目の前には足。にや男とは違う。素足。恐らくは女性の細い足首。断面の赤が生々しい。それが意味することを考えようとして、菫は頭の痛みにこめかみを抑えた。
考えたくない。考えたくない。
考えてはいけない。
見ていたくなくて、目を閉じると、何かの匂い。この匂いにも覚えがある。菫は思う。
思い出すのは、あの日だ。小学校の時、学校で飼っていたウサギがハクビシンに襲われた。その時の小屋の匂い。
閉じた瞼の裏が赤く染まる。
助けて。
かちかち。と、歯の根が鳴る音が聞こえた。それが、自分の歯が立てる音なのだと気付くのに数秒。この感情には覚えがある。
助けてよ。
振り向いて、それが何なのか確認するのが怖い。いや、確認したくない。絶対にしたくない。
「……怖い」
これは、きっと、ダメなやつだ。
けれど、今の菫ではきっと逃げ切れない。
「……鈴。助け……」
声が震える。
その瞬間に、思い出した。
黒い犬に追われた日。鈴はボロボロになっても助けてくれた。また、鈴をそんな目に合わせるのだろうか。
そんな方法しかないんだろうか。
『呼べ』
耳元で声が聞こえた気がした。それは、懐かしい声だった。
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意識があったのはそこまでだった。
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