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錨草と紫苑
6 終わりと続き 4
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「こんなふうに好きなことも。鈴の姿も、一緒に過ごした時間も。忘れちゃうのかな?」
その背中が何故か遠く感じる。手を伸ばせば届く距離なのに、伸ばしても触れられない気がした。
「鈴はさ、『死んだらおしまい』って言ったけど、俺はなんか、生まれ変わるとか、あるかも。って、思ってる。だから、次の命のために今の命のことを忘れるんだと思う」
ぼそり。ぼそり。と、一つ一つ言葉を選ぶみたいに菫は言った。
実際、生まれ変わることがあるかなんて、鈴だってわからない。あるとは言われているし、記憶があると自称している人も少なくない。『死んだらおしまい』と、言ったのはどちらかと言うと、鈴自身の願望だ。世に数えきれないほどいる霊と呼ばれる存在の殆どは救われない。だから、あれが、生きていた人と同じ魂だとは思いたくないというのが真実だと思う。
だから、菫が言っていることを積極的に否定する気は鈴にはなかった。誰にも真実なんてわからないんだから、誰でもが自分の思っていることが真実だと信じていればいい。
「けど、なくしたくないな……」
ふと、垣間見えた横顔。その頬に光が零れたような気がした。青紫色に光るそれは、菫の頬を離れると、きらきらと空気に溶ける。
「その心配はしなくていいですよ」
泣いているのかと思った。だから、鈴はそんな強い言葉を使った。
けれど、その言葉に振り返った菫の表情は泣いている人のそれではなかった。
「菫さんが思いを残して彷徨うような死に方は。絶対にさせません」
それでも、なお、鈴には菫が泣いているように見えたのだ。ただ、その涙は菫が悲しくて流す涙ではなく、あの淡い青紫色の瞳で菫が見た人たちの悲しみすら、映しとっているのだと、思えた。死にたくなるほどのだれかを、忘れてしまった女性の、ただ最後に残った一片の悲しみが菫の頬を伝う幻の涙になっているのだろう。
自信などない。彼に対してあまりに子供な自分では、おそらくまた、こんなふうに菫を悲しませることがあるのだろう。鈴は思う。それでも、今は、ただの願望でも、菫を安心させたかった。
「……うん。ありがと」
鈴の言葉に、菫が顔を見上げてくる。でも、少しだけ躊躇った後、思いがけないことを彼は言ったのだ。
「『死んだらおしまい』って。言葉。鈴は。優しいよな。
でも、俺は終わりたくない。俺は……ただの残滓でも。鈴を思っていた欠片が残るなら、生まれ変われなくても。いい」
まっすぐな瞳からはもう、涙は流れていなかった。
「……なんて。言ってみてりして」
へらり。と、いつもの笑顔。
堪らなくなって、鈴はその身体を腕の中に収めた。
菫は知っている。街に彷徨うかつて人であったものたちが、繰り返す呟きや思いの残るワンシーン。彼らは擦り切れて消えるその瞬間までそれを繰り返す切ないだけの存在だ。それでも、生まれ変わって幸せになるとか、また出会えたらいいとか、そんな言葉でなく、彼は生まれ変われなくてもいい。と、いう言葉を選んだ。
その印象が彼の持つ柔らかな雰囲気とはあまりにかけ離れていて、鈴の心を抉る。
「菫さん。……菫。絶対に、守るから。どこへも。行かないで」
だから、思わず零れてしまった言葉が、もう、ガキ臭いとか、そんなことは思わなかった。ただ、ただ、その人を繋ぎとめておかないと、なくしてしまいそうで怖かった。
その言葉を選んだ菫が本当はただ、優しいだけの人ではないことに、今初めて気づいた。それでも、最後をおどけた言葉で締めくくった彼が、やはり優しいのだと、思い知らされた。
「行かないよ」
鈴の背をぎゅ。っと抱いて、菫が答える。
「変なこと言ってごめん。本っ当重いよな……」
「……重いです。でも、俺の方がもっと重いです」
そう言って、鈴は菫の手を少し乱暴に引いて歩き出した。
「も。今夜は帰らせてあげられそうにないですから」
鈴の呟きに、菫は小さく頷く。
そんな二人を暗い夜の影が飲み込んでいった。
その背中が何故か遠く感じる。手を伸ばせば届く距離なのに、伸ばしても触れられない気がした。
「鈴はさ、『死んだらおしまい』って言ったけど、俺はなんか、生まれ変わるとか、あるかも。って、思ってる。だから、次の命のために今の命のことを忘れるんだと思う」
ぼそり。ぼそり。と、一つ一つ言葉を選ぶみたいに菫は言った。
実際、生まれ変わることがあるかなんて、鈴だってわからない。あるとは言われているし、記憶があると自称している人も少なくない。『死んだらおしまい』と、言ったのはどちらかと言うと、鈴自身の願望だ。世に数えきれないほどいる霊と呼ばれる存在の殆どは救われない。だから、あれが、生きていた人と同じ魂だとは思いたくないというのが真実だと思う。
だから、菫が言っていることを積極的に否定する気は鈴にはなかった。誰にも真実なんてわからないんだから、誰でもが自分の思っていることが真実だと信じていればいい。
「けど、なくしたくないな……」
ふと、垣間見えた横顔。その頬に光が零れたような気がした。青紫色に光るそれは、菫の頬を離れると、きらきらと空気に溶ける。
「その心配はしなくていいですよ」
泣いているのかと思った。だから、鈴はそんな強い言葉を使った。
けれど、その言葉に振り返った菫の表情は泣いている人のそれではなかった。
「菫さんが思いを残して彷徨うような死に方は。絶対にさせません」
それでも、なお、鈴には菫が泣いているように見えたのだ。ただ、その涙は菫が悲しくて流す涙ではなく、あの淡い青紫色の瞳で菫が見た人たちの悲しみすら、映しとっているのだと、思えた。死にたくなるほどのだれかを、忘れてしまった女性の、ただ最後に残った一片の悲しみが菫の頬を伝う幻の涙になっているのだろう。
自信などない。彼に対してあまりに子供な自分では、おそらくまた、こんなふうに菫を悲しませることがあるのだろう。鈴は思う。それでも、今は、ただの願望でも、菫を安心させたかった。
「……うん。ありがと」
鈴の言葉に、菫が顔を見上げてくる。でも、少しだけ躊躇った後、思いがけないことを彼は言ったのだ。
「『死んだらおしまい』って。言葉。鈴は。優しいよな。
でも、俺は終わりたくない。俺は……ただの残滓でも。鈴を思っていた欠片が残るなら、生まれ変われなくても。いい」
まっすぐな瞳からはもう、涙は流れていなかった。
「……なんて。言ってみてりして」
へらり。と、いつもの笑顔。
堪らなくなって、鈴はその身体を腕の中に収めた。
菫は知っている。街に彷徨うかつて人であったものたちが、繰り返す呟きや思いの残るワンシーン。彼らは擦り切れて消えるその瞬間までそれを繰り返す切ないだけの存在だ。それでも、生まれ変わって幸せになるとか、また出会えたらいいとか、そんな言葉でなく、彼は生まれ変われなくてもいい。と、いう言葉を選んだ。
その印象が彼の持つ柔らかな雰囲気とはあまりにかけ離れていて、鈴の心を抉る。
「菫さん。……菫。絶対に、守るから。どこへも。行かないで」
だから、思わず零れてしまった言葉が、もう、ガキ臭いとか、そんなことは思わなかった。ただ、ただ、その人を繋ぎとめておかないと、なくしてしまいそうで怖かった。
その言葉を選んだ菫が本当はただ、優しいだけの人ではないことに、今初めて気づいた。それでも、最後をおどけた言葉で締めくくった彼が、やはり優しいのだと、思い知らされた。
「行かないよ」
鈴の背をぎゅ。っと抱いて、菫が答える。
「変なこと言ってごめん。本っ当重いよな……」
「……重いです。でも、俺の方がもっと重いです」
そう言って、鈴は菫の手を少し乱暴に引いて歩き出した。
「も。今夜は帰らせてあげられそうにないですから」
鈴の呟きに、菫は小さく頷く。
そんな二人を暗い夜の影が飲み込んでいった。
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