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錨草と紫苑
5 鈴と菫 3
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「菫さん」
ちりん。
菫を抱きしめようとしたとき、また、鈴の音が聞こえた。途端に菫の身体がびく。と、震える。その瞳が淡く青紫色を帯びている。思わず舌打ちをして、視線を巡らせると、そこにはあの女性がいた。
「……?」
けれど、様子が違う。
ずっと道路の方しか見なかった視線が、こちらを向いていた。
手入れをされず荒れた髪の間から、濁った昏い目が見ている。鈴と菫の視線が自分に向いていると気付くと、かくん。と、一度首が大きく揺れてから、ぎょろり。と、その眼球がズレた位置を修正するように動く。そして、再び二人の姿を視界にとらえると、首の角度が変わって見えるようになった口の端が裂けるように穴をあける。まるで、笑っているように見えて、背筋に悪寒が走った。
菫の身体が緊張で強張るのがわかる。
「この人はだめだ」
鈴は、怯える菫を自分の背に隠すようにして、女性に対峙した。
どうして?
どうして?
一歩。女性が踏み出す。道路に向かってはいない。かくん。と、女性の首が揺れる。
言葉は空気を振動させて鼓膜を刺激するというよりも、何か別のものを震わせて服感覚に訴えてくるような感覚だった。
「この人は俺の。だ。ようやく俺のものになってくれた。だから、もう、誰にも渡せない」
きっぱりと言い切ると、菫がぎゅ。と、後ろから鈴の手を握ってくれた。その手が震えている。多分、怖いのだろう。誰だってこんなものを見たら怖い。物心ついたときにはこんなものが日常茶飯事だった鈴だって、怖くないと言えば嘘になる。それでも、握ってくれたその手は温かかった。
すきだったのに。
すきだったのに。
一歩。歩みを進めて、鈴の言葉を無視するように女性は手を伸ばしてきた。細い。骨に皮を被せただけの指先が救いを求めるように伸びてくる。
鈴の背中から、彼女の姿を見ていた菫がまた、びく。と、身体を震わせて、手を握る力が強くなる。
彼女はおそらくそれほど強いものでも、悪いものでもない。捕まったところで命を落とすようなことはないだろう。ただ、それは、掴まるのが鈴だった場合だ。
もし、菫だったら。
考えてぞっとした。
優しい人は、心の壁が低い分、この手のモノに侵食されやすい。死ぬようなことはないだろうけれど、ボロボロにされるまで付きまとわれて、人が変わったようになってしまった例を鈴は知っていた。
「この人は、あんたの好きな人じゃない。
俺の。一番。大切な人。だ。
触らないで」
一歩。また女性が近づく。近づくほどに表情ははっきりと分かるようになった。その女性が何を考えているのか分からない。けれど、真っ直ぐにその顔を睨み返す鈴に、最早黒い亀裂のような口が見間違いではなく弓形に歪んだ。
笑っている。
酷く不快だ。
菫を連れて逃げられるだろうかと、頭の中で予測する。
既に、彼女は菫の姿を視界にとらえてしまっている。強いとか弱いとか関係なく、もう、意識を向けられてしまっているのだ。簡単に逃がしてくれるとは思えなかった。
ねえ。
わたしをみて。
一歩。また、引きずるように足が前に出る。指先が近づく。
近い。
もう、一歩前に出れば、指先が届いてしまうかもしれない。
最悪、自分が引き受けるか。と、鈴は覚悟を決めた。
「……鈴」
その時、小さく、菫が呟いた。その声は震えていた。
ねえ。
わたしをあいして。
彼女が最後の一歩を踏み出す前に鈴は覚悟を決めた。
彼女の思い通りになってやる覚悟ではない。菫を守り切る覚悟を。だ。菫の身代わりになっても、菫は感謝したりしない。きっと、自分を責めるし、最悪、鈴から離れてしまう。それだけは、絶対に嫌だった。
だから、覚悟を決めた。
わたしのものに……。
女性が一歩踏み出す。その指先が鈴に触れる。と、思った時だった。
ちりん。
菫を抱きしめようとしたとき、また、鈴の音が聞こえた。途端に菫の身体がびく。と、震える。その瞳が淡く青紫色を帯びている。思わず舌打ちをして、視線を巡らせると、そこにはあの女性がいた。
「……?」
けれど、様子が違う。
ずっと道路の方しか見なかった視線が、こちらを向いていた。
手入れをされず荒れた髪の間から、濁った昏い目が見ている。鈴と菫の視線が自分に向いていると気付くと、かくん。と、一度首が大きく揺れてから、ぎょろり。と、その眼球がズレた位置を修正するように動く。そして、再び二人の姿を視界にとらえると、首の角度が変わって見えるようになった口の端が裂けるように穴をあける。まるで、笑っているように見えて、背筋に悪寒が走った。
菫の身体が緊張で強張るのがわかる。
「この人はだめだ」
鈴は、怯える菫を自分の背に隠すようにして、女性に対峙した。
どうして?
どうして?
一歩。女性が踏み出す。道路に向かってはいない。かくん。と、女性の首が揺れる。
言葉は空気を振動させて鼓膜を刺激するというよりも、何か別のものを震わせて服感覚に訴えてくるような感覚だった。
「この人は俺の。だ。ようやく俺のものになってくれた。だから、もう、誰にも渡せない」
きっぱりと言い切ると、菫がぎゅ。と、後ろから鈴の手を握ってくれた。その手が震えている。多分、怖いのだろう。誰だってこんなものを見たら怖い。物心ついたときにはこんなものが日常茶飯事だった鈴だって、怖くないと言えば嘘になる。それでも、握ってくれたその手は温かかった。
すきだったのに。
すきだったのに。
一歩。歩みを進めて、鈴の言葉を無視するように女性は手を伸ばしてきた。細い。骨に皮を被せただけの指先が救いを求めるように伸びてくる。
鈴の背中から、彼女の姿を見ていた菫がまた、びく。と、身体を震わせて、手を握る力が強くなる。
彼女はおそらくそれほど強いものでも、悪いものでもない。捕まったところで命を落とすようなことはないだろう。ただ、それは、掴まるのが鈴だった場合だ。
もし、菫だったら。
考えてぞっとした。
優しい人は、心の壁が低い分、この手のモノに侵食されやすい。死ぬようなことはないだろうけれど、ボロボロにされるまで付きまとわれて、人が変わったようになってしまった例を鈴は知っていた。
「この人は、あんたの好きな人じゃない。
俺の。一番。大切な人。だ。
触らないで」
一歩。また女性が近づく。近づくほどに表情ははっきりと分かるようになった。その女性が何を考えているのか分からない。けれど、真っ直ぐにその顔を睨み返す鈴に、最早黒い亀裂のような口が見間違いではなく弓形に歪んだ。
笑っている。
酷く不快だ。
菫を連れて逃げられるだろうかと、頭の中で予測する。
既に、彼女は菫の姿を視界にとらえてしまっている。強いとか弱いとか関係なく、もう、意識を向けられてしまっているのだ。簡単に逃がしてくれるとは思えなかった。
ねえ。
わたしをみて。
一歩。また、引きずるように足が前に出る。指先が近づく。
近い。
もう、一歩前に出れば、指先が届いてしまうかもしれない。
最悪、自分が引き受けるか。と、鈴は覚悟を決めた。
「……鈴」
その時、小さく、菫が呟いた。その声は震えていた。
ねえ。
わたしをあいして。
彼女が最後の一歩を踏み出す前に鈴は覚悟を決めた。
彼女の思い通りになってやる覚悟ではない。菫を守り切る覚悟を。だ。菫の身代わりになっても、菫は感謝したりしない。きっと、自分を責めるし、最悪、鈴から離れてしまう。それだけは、絶対に嫌だった。
だから、覚悟を決めた。
わたしのものに……。
女性が一歩踏み出す。その指先が鈴に触れる。と、思った時だった。
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