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錨草と紫苑
4 ワンピースと菫 4
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「……洗った方がいいですね。すぐそこにちっさな公園あるから。確か水道あったはずです」
一度手を離して、地面に落ちたままのトートバッグを拾って自分の肩にかけて、鈴は菫の怪我をしていない方の手を握りなおした。
「大丈夫だよ。これくらい」
遠慮する菫を振り返って、じっと見つめる。そうすると、薄暗い街灯でもようやく分かるくらいに頬を染めて、菫は目を逸らした。それが、好ましい相手に見せる表情だということくらい、鈴にでもわかる。同じ困り顔でも、さっきまでの表情とはまったく違う。本当に純粋にはにかんでいる表情だ。
だから、なおさら、さっきまでの菫の感情が気になってしまう。
「ダメです。行きますよ?」
菫の遠慮は黙殺して、鈴は歩き出そうとした。
ちりん。
ふと、その時に、また、鈴が鳴った。はっとして、思わず菫を引き寄せる。肩を抱くと、菫はびく。と、小さく身体を竦ませた。
顔を見降ろすと、少し青ざめて見える。いや。そうではない。伊達眼鏡の奥、菫の瞳が淡く青紫の光を燈していた。
「菫さん」
その視線は鈴の方を向いてはいなかった。鈴を通り越して、その先、道路の方向に向いている。
「あ」
菫の視線を追って、その方向を見ると、そこには一人の女性がいた。
最初に目についたのは、居酒屋の看板の明かりに照らされた女性が酷く痩せていることだった。恐らくは白。或は薄いピンクだったのかもしれない無地のワンピースは薄汚れて、その袖や裾から伸びる手足はガリガリに痩せて、簡単に折砕けるのではないかと思うほどに細い。髪は長く、荒れてぼさぼさで顔を覆い隠して、その隙間から、今日の空のような濁った焦点の定まらない瞳だけがちらちらと覗いていた。
ふらふらとした足取り。何かを呟いているけれど、聞き取ることはできない。ただ、向かっている先がどこなのかは分かった。
「あぶな……っ」
鈴の腕を振り払って、菫はその女性に手を伸ばした。鈴は慌ててその手を掴んで引き戻す。
同時に、トラックが女性のいる場所を通り過ぎた。
「……あ」
菫の口からため息のような呟きが漏れる。
トラックが通り過ぎた後には何も残ってはいなかった。
「大丈夫ですよ。あれは、生きている人じゃないです」
菫を引き戻して、そ。っと、背中に手を置いて鈴は言った。同時に、菫がバツの悪そうな表情を浮かべていた理由がなんとなく分かった気がした。
現れた女性が人でないことは、一目でわかった。ぶつぶつと呟く声は聞こえたけれど、足音はしなかったし、このあたりで事故が多いのも、それがここで事故に会って亡くなった女性の霊の仕業だと噂されているのも知っていたからだ。
もちろん、そんなことを知らなかったとしても、人と人でないものの違いは鈴にはわかる。どんなにはっきり見えていても、どんなにリアルな存在感があっても、決して人ではないと断言できる存在感の色の明確な違いがそこにはあった。きっと、それは菫にもわかっているはずだと思う。
「……うん。それは、わかってる」
また、あの困ったような、寂しそうな表情で菫は答えた。
わかっているのに、助けようと身体が動く。だから、菫は鈴にこんな表情を見せるのだろう。
「あの人は、もう、ここには、いない」
ゆっくりと、言い聞かせるように鈴は言った。菫の背に回した手で宥めるように背を撫でる。
「動画みたいなものです。死の間際の映像を再生しているだけだから。こっちの声が聞こえて反応することもないし、轢かれても痛くもないし、車からは見えないから危なくもないですよ?
それに……もう、消えかかってるみたいだから、触れることもできない」
菫の行動を非難するつもりなどない。それは菫の優しさなのだ。ただ、分かっていても助けることができないジレンマを少しでも減らしてやりたいし、危険な目に合わせたくもなかっただけだ。
冬の流星群を見た日。同じように女性を助けようとした菫。そこにいる霊には菫を連れて行こうとする意志などない。それでも、菫は手を伸ばす。鈴がそれを心配しているのを菫は知っていた。だから、あんな困ったような顔をしたのだろう。
一度手を離して、地面に落ちたままのトートバッグを拾って自分の肩にかけて、鈴は菫の怪我をしていない方の手を握りなおした。
「大丈夫だよ。これくらい」
遠慮する菫を振り返って、じっと見つめる。そうすると、薄暗い街灯でもようやく分かるくらいに頬を染めて、菫は目を逸らした。それが、好ましい相手に見せる表情だということくらい、鈴にでもわかる。同じ困り顔でも、さっきまでの表情とはまったく違う。本当に純粋にはにかんでいる表情だ。
だから、なおさら、さっきまでの菫の感情が気になってしまう。
「ダメです。行きますよ?」
菫の遠慮は黙殺して、鈴は歩き出そうとした。
ちりん。
ふと、その時に、また、鈴が鳴った。はっとして、思わず菫を引き寄せる。肩を抱くと、菫はびく。と、小さく身体を竦ませた。
顔を見降ろすと、少し青ざめて見える。いや。そうではない。伊達眼鏡の奥、菫の瞳が淡く青紫の光を燈していた。
「菫さん」
その視線は鈴の方を向いてはいなかった。鈴を通り越して、その先、道路の方向に向いている。
「あ」
菫の視線を追って、その方向を見ると、そこには一人の女性がいた。
最初に目についたのは、居酒屋の看板の明かりに照らされた女性が酷く痩せていることだった。恐らくは白。或は薄いピンクだったのかもしれない無地のワンピースは薄汚れて、その袖や裾から伸びる手足はガリガリに痩せて、簡単に折砕けるのではないかと思うほどに細い。髪は長く、荒れてぼさぼさで顔を覆い隠して、その隙間から、今日の空のような濁った焦点の定まらない瞳だけがちらちらと覗いていた。
ふらふらとした足取り。何かを呟いているけれど、聞き取ることはできない。ただ、向かっている先がどこなのかは分かった。
「あぶな……っ」
鈴の腕を振り払って、菫はその女性に手を伸ばした。鈴は慌ててその手を掴んで引き戻す。
同時に、トラックが女性のいる場所を通り過ぎた。
「……あ」
菫の口からため息のような呟きが漏れる。
トラックが通り過ぎた後には何も残ってはいなかった。
「大丈夫ですよ。あれは、生きている人じゃないです」
菫を引き戻して、そ。っと、背中に手を置いて鈴は言った。同時に、菫がバツの悪そうな表情を浮かべていた理由がなんとなく分かった気がした。
現れた女性が人でないことは、一目でわかった。ぶつぶつと呟く声は聞こえたけれど、足音はしなかったし、このあたりで事故が多いのも、それがここで事故に会って亡くなった女性の霊の仕業だと噂されているのも知っていたからだ。
もちろん、そんなことを知らなかったとしても、人と人でないものの違いは鈴にはわかる。どんなにはっきり見えていても、どんなにリアルな存在感があっても、決して人ではないと断言できる存在感の色の明確な違いがそこにはあった。きっと、それは菫にもわかっているはずだと思う。
「……うん。それは、わかってる」
また、あの困ったような、寂しそうな表情で菫は答えた。
わかっているのに、助けようと身体が動く。だから、菫は鈴にこんな表情を見せるのだろう。
「あの人は、もう、ここには、いない」
ゆっくりと、言い聞かせるように鈴は言った。菫の背に回した手で宥めるように背を撫でる。
「動画みたいなものです。死の間際の映像を再生しているだけだから。こっちの声が聞こえて反応することもないし、轢かれても痛くもないし、車からは見えないから危なくもないですよ?
それに……もう、消えかかってるみたいだから、触れることもできない」
菫の行動を非難するつもりなどない。それは菫の優しさなのだ。ただ、分かっていても助けることができないジレンマを少しでも減らしてやりたいし、危険な目に合わせたくもなかっただけだ。
冬の流星群を見た日。同じように女性を助けようとした菫。そこにいる霊には菫を連れて行こうとする意志などない。それでも、菫は手を伸ばす。鈴がそれを心配しているのを菫は知っていた。だから、あんな困ったような顔をしたのだろう。
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