真鍮とアイオライト 1

司書Y

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夏夜

今、しよう? 2

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「池井さん」

 名前を呼ばれてびくり。と、して顔を上げる。鈴の綺麗な顔がじっと見ている。

「あ……。な……に?」

 思わず声が掠れた。
 そして、思う。

 これって。
 本当にそういうことでいいんだよな?

 鈴は優しい。まるで、少女漫画の王子様だ。
 菫と話をするときは、ほかの人と話すときの顔とは全然違う嬉しそうな顔を見せてはくれる。
 待ち合わせには必ず先に来ていて、菫がいることに気付いて、スマートフォンから視線を上げるときの笑顔は必殺技レベルだ。
 距離感もすごく近くなった。ふとした時に誰にも見つからないように指先に触れたり、風で乱れた髪を直してくれたり、睫毛が落ちていると頬に触れたり、どうでもいいことを話すときでも内緒話のように耳元に唇を寄せたりしてくる。
 もう、その行動のひとつひとつに菫の心臓は壊れそうだった。恐らくはかなり挙動不審だったと思う。

 「池井さん?」

 そんなことを考え黙り込んでいると、鈴は心配そうに顔を覗き込んできた。

「……あの、メシまだですよね? 簡単なものでよければ、なんか作ります」

 そう言って、握っていた鈴の手が離れた。なんだか、途端に心細くなる。
 鈴が菫を気遣っているのはわかっていた。

「……いい。お腹すいてない」
 
 昼食を取ったのは午後2時過ぎだったから、本当なら、空腹なのだろう。けれど、本当にお腹はすいていない。

「……でも、遅番の日は……」

 なおも、菫を置いてキッチンに向かおうとする鈴に、菫は背中から腕を回して抱きついた。

「いらない」

 菫は不安だった。

 言葉は濁していたけれど、鈴は女の子と付き合ったことはあるし、することもしていたみたいだ。きっと、ごく普通の性衝動はあるだろう。ただ、菫以外に男性に恋愛感情を持ったことはないと言っていた。
 もちろん、好かれているのだという自覚はある。ほかの人と自分に向ける表情の違いは菫でなくても分かっているし、どうしてそんな違いが出るのか。それは特別な感情があるからだと、鈴はちゃんと伝えてくれている。
 けれど、殆ど三日と空けず会っていたにもかかわらず、鈴が何もしようとはしなかった。触れるだけの可愛いキスや愛情を確かめるみたいなハグはするけれど、その先には進もうとしない。

 だから、菫は不安だった。

「池井さん」

 鈴の声色に困惑が混ざる。
 普段、菫は自分から鈴に触れることはあまりない。それは単純に公衆の面前で男同士イチャイチャしているわけにはいかないからだ。特に、菫と鈴が普段よく会うS市市街地は菫の職場が近い。しかも、閉鎖的な田舎の町だ。どんな噂を流されるか分かったものじゃない。司書という仕事が好きな菫には『そんなことどうでもいい』と、笑い飛ばすことはできなかった。
 そんなことをすべて理解したうえで、鈴はそれでもいいと付き合ってくれているけれど、普通に女の子と付き合っていれば、そんなふうに人目を避けなくてもいい。昼間の大通りで手を繋いで歩くことも、駅前のベンチで肩を寄せ合って座ることも、別れ際のキスだって誰に咎められることもない。
 きっと、鈴だってたくさん我慢してくれている。その上、当たり前のことながら、男性との経験がない菫を気遣って、『その先』を躊躇ってくれているのだとしたら。

「誕生日。なんだろ? プレゼント。もらってよ」

 だから、それは、菫にとってはなけなしの勇気だった。
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