真鍮とアイオライト 1

司書Y

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かの思想家が語るには

狩り 2

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 死を覚悟する。
 なんてこと、普通に生きていればそうそうあるもんじゃない。
 俺だって、つい30分前までは危険だと分かっていても、命までとられることはないだろうと思っていた。
 けれど、それは、もう、すぐ、そこまで来ている。逃れるすべは俺にはない。

 あ。
 こんなことなら。

 と、ふと、頭をかすめたのは鈴の顔だった。

 フラれてもいいから、ちゃんと告っておけばよかった。

 その結果が付き合っている人がいる。だったとしても、それで会えなくなったとしても、少なくとも俺の中では思いを完結できた。この思いまで、ここで一緒に死なせるのが、なんだかひどく申し訳なかった。

「池井さん!」

 そんなふうに思っていたから、聞こえてきたその声が、きっと最後に見ている幻だと思った。片思いのまま死んでいく何一つ取り柄がないごく普通の一般人を気まぐれに哀れと思った女神さまが見せてくれた幻なんだ。せめて最後くらいは大好きなその低い声を聞かせてやろう。と。

「立って! 早く!」

 けれど、幻は、俺の腕を掴んで、強く引っ張り上げてくれた。
 その拍子に体のあちこちが痛むけれど、それが現実であることの証明だった。

「…すず?」

 腕を引かれるまま立ち上がる。それから、駆け出す。
 もう走れないと思っていたのに、その腕に引かれると、不思議とまた走る出すことができた。その瞬間、後ろでばつん。と、音がした。さっき、にや男が消えた時の音だ。きっと、あいつがすぐそこに来ていたんだろう。
 ぞ。と、背筋が凍る。それから、また逃げないといけないと、当たり前の感情が戻ってきた。

「な…んで?」

 導かれるまま走りながら、荒い吐息の隙間で問いかける。
 どうして、鈴がここにいるんだろう。
 俺の方を見ずに走っていくのは、本当に鈴だろうか。声も、後姿も鈴そのものだ。でも、こんなにタイミングよく現れるなんて、普通に考えたら虫が良すぎる話だ。

「理由は後で話します。今は走って」

 ちら。と、俺の方に視線を寄越した顔は、やっぱり間違いなく鈴だった。何一つおかしいところなんてない。
 俺が、想っている、その人だ。
 だから、鈴が後で話すと言っている理由がどんなものだとしても、今は信じようと思った。信じた結果、望まない未来が訪れるかもしれないとは、考えないことにした。

「…うん」

 頷いて鈴に握られた手を強く握り返す。
 ふと、振り返ると、黒い影がついてきている。その状況は変わらない。
 いや、気のせいだろうか、獣の表情が変わっている気がする。獲物を狩るのを楽しんでいるような表情から、怒りの表情へ。狩りの邪魔をされたからだろうか。

「い…ぃぃぃぃぃぃぃけぇぇいぃぃぃぃすぅぅうみれぇぇ」

 金属同士をこすり合わせたような不快な音があたりに響く。思わず耳を塞ぎたくなる悍ましい声。思わず身を竦めると、鈴の手がぐい。と、さっきより強く俺を引っ張る。

「大丈夫。少しだけの我慢です」

 見つめた先の鈴の顔は、緊張してはいるけれど、微笑んでいた。だから、走り続けることができた。

「…はぁなああああせぇぇぇ」

 はなせ?

 聞こえてきた、音の意味が分からずに俺は、ちら。と、後方を見る。相変わらず、獣は後ろについてきている。距離は縮まってはいないけれど、開いてもいない。
 その顔が一瞬、ほんの一瞬歪む。鼻先が伸びたままだが、正面から見るとそれは、人の顔のように見えた。

 もともと、戌井であったものだ。だから、人の顔に見えることはおかしくない。常識はこの際全く当てにならないが、それは理論的に間違っていないと思う。けれど、その顔は戌井の顔ではなかった。
 まるで、若い女性のような。

「乗って」

 そう思ったところで、鈴が立ち止まった。気付くと、近くのコンビニの駐車場だ。相変わらず、往来に人の姿は見えない。店舗の中には人影らしきものが見えるが、どこか平面的で絵のように見えるのは、さっきと同じだった。
 そのコンビニの駐車場には鈴のバイクが止まっていた。エンジンもかけたままだ。
 渡されるままヘルメットをかぶって、バイクに跨る。
 発車したのは、黒い獣の爪が俺のダウンの背中を裂いた直後だった。
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