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かの思想家が語るには
存在しない同級生 3
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ちりん。
と、その場面には全く似つかわしくない音がした。
鈴の音だ。
澄んだ泉に、水滴が落ちるような音色だった。
その音を聞いたらこの臭気に支配されていた世界が一変した。まるで洗い流されたかのように、クリアになる。
同時に、身体が動くようになった。弾かれたように身を引くと、今までいたその場所に次の瞬間に獣の顔があった。そのまま、動けずにいたら俺もにや男のようになっていたことだろう。
多少ふら付きながら、俺は振り向いて駆け出した。
途端に、思い出したかのように身体の節々が痛む。一歩進むごとに身体が軋んで思うように動かない。
思えばあの事故の時、車の影の中に消えていった黒い影も、書棚の影に消えた影も、この獣だった。匂いが同じだ。にや男だけが出てきたときには、こんな匂いはしていない。
最初から、俺を狙っていたのはこいつで、もしかしたら、にや男はずっと警告していたのかもしれない。と、言っても、にや男自体もあの容姿だ。聞こえていたとしても、意味を正しく理解することなんでできなかっただろう。
痛む体を引きずるようにして俺は広い通りを目指した。たった、50mが遠い。もがいても、もがいても進めないなんていう夢をよく見るが、まさにそれそのものだ。粘度の高い液体の中に付け込まれたみたいに、足はスローモーションになって、思い通りになってくれない。
もどかしい。
ちら。と、後ろを振り返ると、ひどくのんびりとした歩調で、黒い影が付いてくる。慌ててなどいない。一瞬しか見えていないが、相変わらず口の端に歓喜を張り付けていた。そのさまにまた、背を寒気が駆け上る。
追いつかれたらどうなるのだろう。
今まで事故を装っていたのに、何故急に直接攻撃をしてくるのか。
俺に正体?がバレたから?
うまそうと言っていたが、喰いたいだけなら、何も気付いていないときに、さっきのにや男みたいに喰ってしまえばそれでよかったはずなのに。
俺、アレに喰われんの?
何か小さな段差に足をとられる。身体が大きく傾いて、転びそうになるけれど、転んだら追いつかれると、必死で体制を立て直して、俺は表通りに出た。
そこで、愕然とする。
誰もいない。
裏通りならともかく、平日とはいえ7時前に大通りに誰もいないのはおかしい。しん。と、静まり返る街はまるで静止画を見ているようで現実感がない。
「どぉぉこ…いくぅぅう」
背後から声が追ってくる。気味の悪い声だった。間延びした話し方に似つかわしくない、低い声だ。その声色が歓喜に満ちているように感じるのは、俺を捕食できると確信しているからだろうか。それとも、犬の性で獲物を狩ること自体に喜びを感じているのだろうか。
と、どっちでもいいことが頭をかすめる。どっちであったとしても、悍ましいことに変わりはない。
「いぃぃけい。すうみれぇえ」
正直な話、大通りに出ればどうにかなるんじゃないかと思っていた。今まで、人がたくさんいる場所で何かをされたことはなかったから。直接的に手を出されなかったのは、人がいたからじゃないだろうかと想像していたから。
声はすぐ後ろまで迫っている。けれど、俺はもう、どっちへ進んでいいのか分からなくなっていた。あれから逃げられるほどの脚力が今の自分にあるだろうか。そもそも、健康な状態でも無理なのに、満身創痍の今どこに向かっても逃げ切れる気がしない。
ここよりも人のいるところ。と、考える。真っ先に、駅。と、思うけれど、そこまで追いつかれずに走って逃げられると思えない。
「くそっ」
悪態をついて、それでもせめても、と、駅の方角へ向かって、走り出す。立ち止まっていた時間は一秒もなかっただろう。けれど、足音は確実に迫って来ていた。
と、その場面には全く似つかわしくない音がした。
鈴の音だ。
澄んだ泉に、水滴が落ちるような音色だった。
その音を聞いたらこの臭気に支配されていた世界が一変した。まるで洗い流されたかのように、クリアになる。
同時に、身体が動くようになった。弾かれたように身を引くと、今までいたその場所に次の瞬間に獣の顔があった。そのまま、動けずにいたら俺もにや男のようになっていたことだろう。
多少ふら付きながら、俺は振り向いて駆け出した。
途端に、思い出したかのように身体の節々が痛む。一歩進むごとに身体が軋んで思うように動かない。
思えばあの事故の時、車の影の中に消えていった黒い影も、書棚の影に消えた影も、この獣だった。匂いが同じだ。にや男だけが出てきたときには、こんな匂いはしていない。
最初から、俺を狙っていたのはこいつで、もしかしたら、にや男はずっと警告していたのかもしれない。と、言っても、にや男自体もあの容姿だ。聞こえていたとしても、意味を正しく理解することなんでできなかっただろう。
痛む体を引きずるようにして俺は広い通りを目指した。たった、50mが遠い。もがいても、もがいても進めないなんていう夢をよく見るが、まさにそれそのものだ。粘度の高い液体の中に付け込まれたみたいに、足はスローモーションになって、思い通りになってくれない。
もどかしい。
ちら。と、後ろを振り返ると、ひどくのんびりとした歩調で、黒い影が付いてくる。慌ててなどいない。一瞬しか見えていないが、相変わらず口の端に歓喜を張り付けていた。そのさまにまた、背を寒気が駆け上る。
追いつかれたらどうなるのだろう。
今まで事故を装っていたのに、何故急に直接攻撃をしてくるのか。
俺に正体?がバレたから?
うまそうと言っていたが、喰いたいだけなら、何も気付いていないときに、さっきのにや男みたいに喰ってしまえばそれでよかったはずなのに。
俺、アレに喰われんの?
何か小さな段差に足をとられる。身体が大きく傾いて、転びそうになるけれど、転んだら追いつかれると、必死で体制を立て直して、俺は表通りに出た。
そこで、愕然とする。
誰もいない。
裏通りならともかく、平日とはいえ7時前に大通りに誰もいないのはおかしい。しん。と、静まり返る街はまるで静止画を見ているようで現実感がない。
「どぉぉこ…いくぅぅう」
背後から声が追ってくる。気味の悪い声だった。間延びした話し方に似つかわしくない、低い声だ。その声色が歓喜に満ちているように感じるのは、俺を捕食できると確信しているからだろうか。それとも、犬の性で獲物を狩ること自体に喜びを感じているのだろうか。
と、どっちでもいいことが頭をかすめる。どっちであったとしても、悍ましいことに変わりはない。
「いぃぃけい。すうみれぇえ」
正直な話、大通りに出ればどうにかなるんじゃないかと思っていた。今まで、人がたくさんいる場所で何かをされたことはなかったから。直接的に手を出されなかったのは、人がいたからじゃないだろうかと想像していたから。
声はすぐ後ろまで迫っている。けれど、俺はもう、どっちへ進んでいいのか分からなくなっていた。あれから逃げられるほどの脚力が今の自分にあるだろうか。そもそも、健康な状態でも無理なのに、満身創痍の今どこに向かっても逃げ切れる気がしない。
ここよりも人のいるところ。と、考える。真っ先に、駅。と、思うけれど、そこまで追いつかれずに走って逃げられると思えない。
「くそっ」
悪態をついて、それでもせめても、と、駅の方角へ向かって、走り出す。立ち止まっていた時間は一秒もなかっただろう。けれど、足音は確実に迫って来ていた。
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