真鍮とアイオライト 1

司書Y

文字の大きさ
上 下
145 / 392
かの思想家が語るには

存在しない同級生 3

しおりを挟む
 ちりん。

 と、その場面には全く似つかわしくない音がした。
 鈴の音だ。
 澄んだ泉に、水滴が落ちるような音色だった。

 その音を聞いたらこの臭気に支配されていた世界が一変した。まるで洗い流されたかのように、クリアになる。
 同時に、身体が動くようになった。弾かれたように身を引くと、今までいたその場所に次の瞬間に獣の顔があった。そのまま、動けずにいたら俺もにや男のようになっていたことだろう。
 多少ふら付きながら、俺は振り向いて駆け出した。

 途端に、思い出したかのように身体の節々が痛む。一歩進むごとに身体が軋んで思うように動かない。
 思えばあの事故の時、車の影の中に消えていった黒い影も、書棚の影に消えた影も、この獣だった。匂いが同じだ。にや男だけが出てきたときには、こんな匂いはしていない。
 最初から、俺を狙っていたのはこいつで、もしかしたら、にや男はずっと警告していたのかもしれない。と、言っても、にや男自体もあの容姿だ。聞こえていたとしても、意味を正しく理解することなんでできなかっただろう。

 痛む体を引きずるようにして俺は広い通りを目指した。たった、50mが遠い。もがいても、もがいても進めないなんていう夢をよく見るが、まさにそれそのものだ。粘度の高い液体の中に付け込まれたみたいに、足はスローモーションになって、思い通りになってくれない。
 もどかしい。
 ちら。と、後ろを振り返ると、ひどくのんびりとした歩調で、黒い影が付いてくる。慌ててなどいない。一瞬しか見えていないが、相変わらず口の端に歓喜を張り付けていた。そのさまにまた、背を寒気が駆け上る。

 追いつかれたらどうなるのだろう。
 今まで事故を装っていたのに、何故急に直接攻撃をしてくるのか。
 俺に正体?がバレたから?
 うまそうと言っていたが、喰いたいだけなら、何も気付いていないときに、さっきのにや男みたいに喰ってしまえばそれでよかったはずなのに。

 俺、アレに喰われんの?

 何か小さな段差に足をとられる。身体が大きく傾いて、転びそうになるけれど、転んだら追いつかれると、必死で体制を立て直して、俺は表通りに出た。
 そこで、愕然とする。
 誰もいない。
 裏通りならともかく、平日とはいえ7時前に大通りに誰もいないのはおかしい。しん。と、静まり返る街はまるで静止画を見ているようで現実感がない。

「どぉぉこ…いくぅぅう」

 背後から声が追ってくる。気味の悪い声だった。間延びした話し方に似つかわしくない、低い声だ。その声色が歓喜に満ちているように感じるのは、俺を捕食できると確信しているからだろうか。それとも、犬の性で獲物を狩ること自体に喜びを感じているのだろうか。
 と、どっちでもいいことが頭をかすめる。どっちであったとしても、悍ましいことに変わりはない。

「いぃぃけい。すうみれぇえ」

 正直な話、大通りに出ればどうにかなるんじゃないかと思っていた。今まで、人がたくさんいる場所で何かをされたことはなかったから。直接的に手を出されなかったのは、人がいたからじゃないだろうかと想像していたから。
 声はすぐ後ろまで迫っている。けれど、俺はもう、どっちへ進んでいいのか分からなくなっていた。あれから逃げられるほどの脚力が今の自分にあるだろうか。そもそも、健康な状態でも無理なのに、満身創痍の今どこに向かっても逃げ切れる気がしない。
 ここよりも人のいるところ。と、考える。真っ先に、駅。と、思うけれど、そこまで追いつかれずに走って逃げられると思えない。

「くそっ」

 悪態をついて、それでもせめても、と、駅の方角へ向かって、走り出す。立ち止まっていた時間は一秒もなかっただろう。けれど、足音は確実に迫って来ていた。
しおりを挟む
感想 6

あなたにおすすめの小説

鬼上司と秘密の同居

なの
BL
恋人に裏切られ弱っていた会社員の小沢 海斗(おざわ かいと)25歳 幼馴染の悠人に助けられ馴染みのBARへ… そのまま酔い潰れて目が覚めたら鬼上司と呼ばれている浅井 透(あさい とおる)32歳の部屋にいた… いったい?…どうして?…こうなった? 「お前は俺のそばに居ろ。黙って愛されてればいい」 スパダリ、イケメン鬼上司×裏切られた傷心海斗は幸せを掴むことができるのか… 性描写には※を付けております。

放課後教室

Kokonuca.
BL
ある放課後の教室で彼に起こった凶事からすべて始まる

見ぃつけた。

茉莉花 香乃
BL
小学生の時、意地悪されて転校した。高校一年生の途中までは穏やかな生活だったのに、全寮制の学校に転入しなければならなくなった。そこで、出会ったのは… 他サイトにも公開しています

【完結・BL】俺をフッた初恋相手が、転勤して上司になったんだが?【先輩×後輩】

彩華
BL
『俺、そんな目でお前のこと見れない』 高校一年の冬。俺の初恋は、見事に玉砕した。 その後、俺は見事にDTのまま。あっという間に25になり。何の変化もないまま、ごくごくありふれたサラリーマンになった俺。 そんな俺の前に、運命の悪戯か。再び初恋相手は現れて────!?

4人の兄に溺愛されてます

まつも☆きらら
BL
中学1年生の梨夢は5人兄弟の末っ子。4人の兄にとにかく溺愛されている。兄たちが大好きな梨夢だが、心配性な兄たちは時に過保護になりすぎて。

秘花~王太子の秘密と宿命の皇女~

めぐみ
BL
☆俺はお前を何度も抱き、俺なしではいられぬ淫らな身体にする。宿命という名の数奇な運命に翻弄される王子達☆ ―俺はそなたを玩具だと思ったことはなかった。ただ、そなたの身体は俺のものだ。俺はそなたを何度でも抱き、俺なしではいられないような淫らな身体にする。抱き潰すくらいに抱けば、そなたもあの宦官のことなど思い出しもしなくなる。― モンゴル大帝国の皇帝を祖父に持ちモンゴル帝国直系の皇女を生母として生まれた彼は、生まれながらの高麗の王太子だった。 だが、そんな王太子の運命を激変させる出来事が起こった。 そう、あの「秘密」が表に出るまでは。

幸せの温度

本郷アキ
BL
※ラブ度高めです。直接的な表現もありますので、苦手な方はご注意ください。 まだ産まれたばかりの葉月を置いて、両親は天国の門を叩いた。 俺がしっかりしなきゃ──そう思っていた兄、睦月《むつき》17歳の前に表れたのは、両親の親友だという浅黄陽《あさぎよう》33歳。 陽は本当の家族のように接してくれるけれど、血の繋がりのない偽物の家族は終わりにしなければならない、だってずっと家族じゃいられないでしょ? そんなのただの言い訳。 俺にあんまり触らないで。 俺の気持ちに気付かないで。 ……陽の手で触れられるとおかしくなってしまうから。 俺のこと好きでもないのに、どうしてあんなことをしたの? 少しずつ育っていった恋心は、告白前に失恋決定。 家事に育児に翻弄されながら、少しずつ家族の形が出来上がっていく。 そんな中、睦月をストーキングする男が現れて──!?

ハイスペックED~元凶の貧乏大学生と同居生活~

みきち@書籍発売中!
BL
イケメン投資家(24)が、学生時代に初恋拗らせてEDになり、元凶の貧乏大学生(19)と同居する話。 成り行きで添い寝してたらとんでも関係になっちゃう、コメディ風+お料理要素あり♪ イケメン投資家(高見)×貧乏大学生(主人公:凛)

処理中です...