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かの思想家が語るには
存在しない同級生 2
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そんな状況に気付かされても俺はまだ、動けなかった。
いろいろなものを見てきた。不気味なものとか、怖いものとか、変なものとか。だからこんなこと、そこそこ慣れたつもりでいた。逃げればどうにかなると、思っていた。
けれど、目の前のそれはそんな俺の経験なんて通用しそうもない悪意の塊のように見えた。そして、その悪意は、真っ直ぐに俺に向けられていると実感できた。
それが、どうしようもなく怖くて動けない。足が竦む。
ぎょろり。と、蹲った黒い影の右の目玉が動く。そして、それは、俺の姿を捉える。汚らわしい涎が垂れ下がる裂けた口の端がゆっくりとつり上がった。それから、右目を追うようにぎょろ。と、左目も俺の姿を捉える。
「いー。けい。す…みれ。いけ…いぃすみーみーれぇ」
その口から人語が発せられるのには酷く違和感があった。しかも、それが自分の名前だったことに鳥肌が立つ。
ゆら。と、影が揺らめいて、それは身体を起こした。
「い…ぬ?」
立ち上がったのは、体高が5・6年生の背丈くらいもある真っ黒な犬のようなものだった。
周りの光が吸い込まれてしまっているんではないかと思うような黒。骨格や外見は黒い犬そのものだ。狼のような長い耳と垂れたしっぽ。普通の犬にしては気持ちが悪いほど盛り上がった筋肉。地に立つ足には長い爪。表面は黒い毛で覆われているけれど、時折ぼこり。と表面が盛り上がったり、べこり。と、凹んだりを繰り返す。その度に身体を震わせる様が吐き気をもよおすほどに悍ましい。
なによりも、犬にしては大きい。牛ほどもある。自分の目が遠近感を正確にとらえられていないのではないかと思うほど大きい。
かし。と、音がして、犬は一歩前へ踏み出した。
ヤバい。
と。思った瞬間だった。
ばつん。と、何かが千切れるような音があたりに響いた。
同時に、今まですぐそこにいたものが消えた。正確に言うと、すべてがなくなったわけではない。いつの間にか俺の近くまで来ていたにや男のふくらはぎから上の部分が一瞬にして消えた。後に残された二本の足は現実のものとは違って、血を流すことも、倒れることもなく、ただ、何が起きたか分からないと言った様子で立ったままだ。
もちろん、何が起きたのか分からないのは俺も一緒だった。
ただ、一瞬だけ見えた気がした。隣に佇む黒い獣の口がありえない大きさに開いた景色が。カバとかワニとかそんな生易しいものではない。まるで漫画に出てくる怪物のように今はまた元の大きさと形に戻っている口の周り形が歪んで、割れて、開いた。動物の動きというより、影絵のようだった。
「まずい」
べろり。と、長い舌が口の周りを舐める。声は戌井のときと同じだ。と、思ってから、本当にそうだったかと疑問が過る。そもそも、戌井の声はどんなだっただろう。
さっきまでは当たり前のことと認識していたものが突然なんの根拠も失ってしまう。おそらく、考えると怖いのだけれど、俺は戌井に再会していない。というか、そもそも出会っていない。戌井は存在していない。さっき見えた顔。自分の顔だった。想像してぞっとする。もしかしたら、俺は何かに映った自分自身を戌井と思い込んでいたのかもしれない。何かに操られるみたいに。
「…なん…なんだよ」
かろうじて出た声は、ひどく震えていて、自分の声とは思えなかった。
「いけ…いぃぃぃ。すぅぅぅぅみぃぃれぇぇ。うま…ぁそぉ」
また、べろ。と、獣は舌なめずりをした。ぼたぼた、と、涎が地面に垂れる。酷く臭い。さっきまでの匂いも十分すぎるほどに臭かったが、にや男を喰ってから、さらに臭くなっている。近づくほどに強くなる匂い。吐き気が増す。
「くぅわせてぇ」
かぱ。と、また、その口が開いた。
中は闇。無数の目がぎょろぎょろと、それぞれに動いていたものが、一斉にこっちを向いた。
いろいろなものを見てきた。不気味なものとか、怖いものとか、変なものとか。だからこんなこと、そこそこ慣れたつもりでいた。逃げればどうにかなると、思っていた。
けれど、目の前のそれはそんな俺の経験なんて通用しそうもない悪意の塊のように見えた。そして、その悪意は、真っ直ぐに俺に向けられていると実感できた。
それが、どうしようもなく怖くて動けない。足が竦む。
ぎょろり。と、蹲った黒い影の右の目玉が動く。そして、それは、俺の姿を捉える。汚らわしい涎が垂れ下がる裂けた口の端がゆっくりとつり上がった。それから、右目を追うようにぎょろ。と、左目も俺の姿を捉える。
「いー。けい。す…みれ。いけ…いぃすみーみーれぇ」
その口から人語が発せられるのには酷く違和感があった。しかも、それが自分の名前だったことに鳥肌が立つ。
ゆら。と、影が揺らめいて、それは身体を起こした。
「い…ぬ?」
立ち上がったのは、体高が5・6年生の背丈くらいもある真っ黒な犬のようなものだった。
周りの光が吸い込まれてしまっているんではないかと思うような黒。骨格や外見は黒い犬そのものだ。狼のような長い耳と垂れたしっぽ。普通の犬にしては気持ちが悪いほど盛り上がった筋肉。地に立つ足には長い爪。表面は黒い毛で覆われているけれど、時折ぼこり。と表面が盛り上がったり、べこり。と、凹んだりを繰り返す。その度に身体を震わせる様が吐き気をもよおすほどに悍ましい。
なによりも、犬にしては大きい。牛ほどもある。自分の目が遠近感を正確にとらえられていないのではないかと思うほど大きい。
かし。と、音がして、犬は一歩前へ踏み出した。
ヤバい。
と。思った瞬間だった。
ばつん。と、何かが千切れるような音があたりに響いた。
同時に、今まですぐそこにいたものが消えた。正確に言うと、すべてがなくなったわけではない。いつの間にか俺の近くまで来ていたにや男のふくらはぎから上の部分が一瞬にして消えた。後に残された二本の足は現実のものとは違って、血を流すことも、倒れることもなく、ただ、何が起きたか分からないと言った様子で立ったままだ。
もちろん、何が起きたのか分からないのは俺も一緒だった。
ただ、一瞬だけ見えた気がした。隣に佇む黒い獣の口がありえない大きさに開いた景色が。カバとかワニとかそんな生易しいものではない。まるで漫画に出てくる怪物のように今はまた元の大きさと形に戻っている口の周り形が歪んで、割れて、開いた。動物の動きというより、影絵のようだった。
「まずい」
べろり。と、長い舌が口の周りを舐める。声は戌井のときと同じだ。と、思ってから、本当にそうだったかと疑問が過る。そもそも、戌井の声はどんなだっただろう。
さっきまでは当たり前のことと認識していたものが突然なんの根拠も失ってしまう。おそらく、考えると怖いのだけれど、俺は戌井に再会していない。というか、そもそも出会っていない。戌井は存在していない。さっき見えた顔。自分の顔だった。想像してぞっとする。もしかしたら、俺は何かに映った自分自身を戌井と思い込んでいたのかもしれない。何かに操られるみたいに。
「…なん…なんだよ」
かろうじて出た声は、ひどく震えていて、自分の声とは思えなかった。
「いけ…いぃぃぃ。すぅぅぅぅみぃぃれぇぇ。うま…ぁそぉ」
また、べろ。と、獣は舌なめずりをした。ぼたぼた、と、涎が地面に垂れる。酷く臭い。さっきまでの匂いも十分すぎるほどに臭かったが、にや男を喰ってから、さらに臭くなっている。近づくほどに強くなる匂い。吐き気が増す。
「くぅわせてぇ」
かぱ。と、また、その口が開いた。
中は闇。無数の目がぎょろぎょろと、それぞれに動いていたものが、一斉にこっちを向いた。
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