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かの思想家が語るには
存在しない同級生 1
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硬直する俺に横から声がした。
「どうした? 池井」
ひどく臭い。これは、獲物を捕食する獣の匂いだ。トラックが暴走してきたとき、脚立が倒されたとき辺りに漂っていた匂いだ。
目を上げた先で、男が笑っている。その笑顔には見覚えがあった。
へらり。と、締りのない笑顔。よく、人からは人がよさそうだと評される。笑顔。
俺の顔だ。今までどうして気付かなかったんだろう。へらへらと笑うその顔を見ていると酷く不快で、吐き気がして、俺は口もとを抑えた。
「お前…誰だ」
こみ上げてくるものを押しとどめて、喘ぐように呟いた声が震えた。これはよくないものだ。俺の感覚が当てにならないとか、ずっと言い続けてきたけれど、これを知らないから言えた事なのだと思う。そのくらいに明確に悪意を感じる。
俺の質問に、戌井だったものの輪郭がぐにゃり。と、歪んだ。
ぶぶ。
と、また、LINEの着信を知らせる振動。
横目で確認すると、今度は鈴からのLINEだった。
にげて
と、一言だけ。
「あー。バレたあ」
目の焦点が合っていない。ぎょろぎょろ。と、左右の目が別々に動いている。それだけでも、充分に気持ちが悪い。肌は次第に黒く変色していく、それから、ぼこぼこ。と、身体の表面のそこら中が膨らんだり凹んだりして、形を変えていった。その変化で裂けた肌からは、暗い闇が、闇の中から、無数の血走った眼が覗いている。その上、そこからは無数の黒い何かがはみ出して伸びていった。
毛?
と、思う。けれど、人間の髪のような質感には見えない。何かもっと硬くて太くて油で濡れたように光っている。もちろん、綺麗と表現するような光ではない。音で表現するならぬらぬら。とした、気味の悪い色合いだ。
俺はその変化を、じっと見ていた。
興味なんてないし、できることならすぐに逃げ出したい。
けれど、身体が動いてはくれない。金縛りって言うのは、こういうことを言うんだろう。
声すら上げられず、そのさまを見ていた。
みつけた。
と、小さな声が聞こえてきた。その途端、そちらを振り向く動作で、驚くほどあっさりと、身体が動いた。そこには、電柱の影。その中にはあのにや男がいた。目が合ったというには、彼には目はない。けれど、それがどうしようもなく嬉しいことのように、その口が半月型になった。
みつかった。
その言葉の意味は俺を見つけることができた。ではなく、俺に見つかってしまった。の意味だと、あとになって思った。でもそれは、見つかってしまったことが残念という意味合いと同時に、かくれんぼで最後まで見つけてもらえなかった子供がようやく見つけてもらった安堵のように感じられた。
つかまったら、だめだ。
にや男が、言う。ずっとはっきりと聞こえなかった言葉が、はっきりと聞き取れる。言われてようやく、俺は自分の置かれていた状況を思い出した。
にや男から、視線を戻した先に、戌井はいなかった。代わりに黒い何かが、その場所にうずくまっている。表皮はすでに黒光りする毛で覆われて、人の肌のような部分は残っていない。手足も、人のそれではなく、明らかに四足歩行する生き物のそれだ。太い腿から引き締まった筋肉を纏った足がすらり、と伸びている。かつては手であったろう場所も、毛皮に包まれながらも、血管の浮き出た脚としか形容のできないものが生えていた。背後には尻尾のようなものも見える。
幾つも鈎裂きがあり歪に尖った耳。突き出た鼻にも傷跡。充血して真っ赤になった目。けれど、最も目を引いたのは、口。だ。
かぱり。と、遠慮も警戒もなく開かれたそこからは、どろ。っと、赤茶けた唾液が糸を引いていた。だらり、と延びた舌。鋭く尖った歯列は唾液の色を濃くしたような穢らしい色合いだ。
大きく開いた口からは荒い吐息が無遠慮に吐き出されている。ひどく、臭い。これは腐った血の匂いだ。と、そんなもの嗅いだことなんてないのに、思う。
「どうした? 池井」
ひどく臭い。これは、獲物を捕食する獣の匂いだ。トラックが暴走してきたとき、脚立が倒されたとき辺りに漂っていた匂いだ。
目を上げた先で、男が笑っている。その笑顔には見覚えがあった。
へらり。と、締りのない笑顔。よく、人からは人がよさそうだと評される。笑顔。
俺の顔だ。今までどうして気付かなかったんだろう。へらへらと笑うその顔を見ていると酷く不快で、吐き気がして、俺は口もとを抑えた。
「お前…誰だ」
こみ上げてくるものを押しとどめて、喘ぐように呟いた声が震えた。これはよくないものだ。俺の感覚が当てにならないとか、ずっと言い続けてきたけれど、これを知らないから言えた事なのだと思う。そのくらいに明確に悪意を感じる。
俺の質問に、戌井だったものの輪郭がぐにゃり。と、歪んだ。
ぶぶ。
と、また、LINEの着信を知らせる振動。
横目で確認すると、今度は鈴からのLINEだった。
にげて
と、一言だけ。
「あー。バレたあ」
目の焦点が合っていない。ぎょろぎょろ。と、左右の目が別々に動いている。それだけでも、充分に気持ちが悪い。肌は次第に黒く変色していく、それから、ぼこぼこ。と、身体の表面のそこら中が膨らんだり凹んだりして、形を変えていった。その変化で裂けた肌からは、暗い闇が、闇の中から、無数の血走った眼が覗いている。その上、そこからは無数の黒い何かがはみ出して伸びていった。
毛?
と、思う。けれど、人間の髪のような質感には見えない。何かもっと硬くて太くて油で濡れたように光っている。もちろん、綺麗と表現するような光ではない。音で表現するならぬらぬら。とした、気味の悪い色合いだ。
俺はその変化を、じっと見ていた。
興味なんてないし、できることならすぐに逃げ出したい。
けれど、身体が動いてはくれない。金縛りって言うのは、こういうことを言うんだろう。
声すら上げられず、そのさまを見ていた。
みつけた。
と、小さな声が聞こえてきた。その途端、そちらを振り向く動作で、驚くほどあっさりと、身体が動いた。そこには、電柱の影。その中にはあのにや男がいた。目が合ったというには、彼には目はない。けれど、それがどうしようもなく嬉しいことのように、その口が半月型になった。
みつかった。
その言葉の意味は俺を見つけることができた。ではなく、俺に見つかってしまった。の意味だと、あとになって思った。でもそれは、見つかってしまったことが残念という意味合いと同時に、かくれんぼで最後まで見つけてもらえなかった子供がようやく見つけてもらった安堵のように感じられた。
つかまったら、だめだ。
にや男が、言う。ずっとはっきりと聞こえなかった言葉が、はっきりと聞き取れる。言われてようやく、俺は自分の置かれていた状況を思い出した。
にや男から、視線を戻した先に、戌井はいなかった。代わりに黒い何かが、その場所にうずくまっている。表皮はすでに黒光りする毛で覆われて、人の肌のような部分は残っていない。手足も、人のそれではなく、明らかに四足歩行する生き物のそれだ。太い腿から引き締まった筋肉を纏った足がすらり、と伸びている。かつては手であったろう場所も、毛皮に包まれながらも、血管の浮き出た脚としか形容のできないものが生えていた。背後には尻尾のようなものも見える。
幾つも鈎裂きがあり歪に尖った耳。突き出た鼻にも傷跡。充血して真っ赤になった目。けれど、最も目を引いたのは、口。だ。
かぱり。と、遠慮も警戒もなく開かれたそこからは、どろ。っと、赤茶けた唾液が糸を引いていた。だらり、と延びた舌。鋭く尖った歯列は唾液の色を濃くしたような穢らしい色合いだ。
大きく開いた口からは荒い吐息が無遠慮に吐き出されている。ひどく、臭い。これは腐った血の匂いだ。と、そんなもの嗅いだことなんてないのに、思う。
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