真鍮とアイオライト 1

司書Y

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かの思想家が語るには

聞こえない着信音 2

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 業務を終わらせて、図書館を出たのは六時半過ぎだった。
 地下の書庫に籠って、除架する本の選定を延々としていたせいで、誰にも気づかれず、そろそろ中番の定時だと事務室に戻って初めて俺がいることに気付いた同僚に身体を労わらなかったことを延々と説教された。
 へらり。と笑って受け流す俺に小柏さんがため息を吐く。それから、『またトラックに喧嘩売ったりしないように、歩道の大きな明るい道を帰りなさい』と、塾帰りの小学生のような注意を受けた。

 図書館には男性職員は少ない。しかも、二十代半ばの若い職員ともなれば俺一人で、同僚たちから見たら、息子と変わらないくらいに見えるらしい。小柏さんはそこまで年上でもないから、手のかかる弟くらいに思われているのだろう。いつもなら、大抵のことは素直にはい。と、答える。今日だって、はい。とは答えた。けれど、大通りを使って帰らなかったのは、別に反抗しようと思ったわけではない。
 ただ、考え事をしていたら、意図せずにいつも使う道の方に足が向いてしまっていただけだ。

 職員通用口を出て、市民センターの裏口に背を向けて、裏通りに向かう。表通りに行くはずだったのにと、思ったのは歩き始めてしばらくしてからだ。市民センターの駐車場の専用道路から裏路地に入る手前だった。
 俺は自他共に認める面倒くさがりだ。しかも、事故のせいで身体のそこいらじゅうが痛い。さらには、裏路地を通るのはほんの50mほどで、その先は今日帰りに使おうと思っていた表通りに交差する大通りに繋がっていた。
 とにかく、引き返して表通りに出ない理由なんていくらでも見つかってしまった。

 裏路地に入ると、そこには誰もいなかった。それは、特に珍しいことではない。表通りならともかく、近隣のオフィスが閉まる5時ならともかく、飲み屋街が賑わいを見せる週末ならともかく、田舎の町の裏路地に中途半端な時間に踏み入れるものは多くはない。
 日が暮れて、もう、暗くなっている道には、街灯がついてはいるが、妙に暗い気がする。街灯が照らす濃い黒の影に俺は無意識に”何か”の姿を探した。特に何も見えはしない。ただ、寒々とした黒がいつもより深い色に見えるだけだった。

 ふと、寒気のようなものを感じて、やはり、表通りに戻ろう。と、思う。
 くるり。と、振り返ったとき、背中の方から声がした。

「池井」

 え。と、一瞬俺は固まった。さっき、ほんの一瞬前に見回した時、そこには誰もいなかったのだ。それなのに、声をかけられた。
 強く感じる生臭い匂い。嫌な感じがして、振り返れない。
 そうすると、今度は肩にぽん。と、何かが触れた。

「よう。仕事終わったのか?」

 ねとり。と、粘度の高い何かが、服を通り越して肌に触れた気がして、寒気が背中を駆けあがる。思わずがば。と、振り払ってから、俺は恐る恐る顔を上げた。そこにはひどく驚いた男の顔があった。

「えと…」

 ゆらり。と、視界が滲む。頭を振ってもう一度その顔を見ると、それは見知った顔に見えた。

「戌井?」

 躊躇いがちに名前を呼ぶ。

「おう。どうした? 大丈夫か?」

 その顔が驚きから、気遣うような表情に変わったのを見て、俺はほ。と、小さくため息を漏らす。そこにあったのが、あの黒い影に半月のような笑いをたたえた口だったら、気を失っていたかもしれない。

「お前、なんでいつも帰りにいるんだよ」

 心臓がどきどきと大きく鳴っている。その音がうるさいほどだ。驚かされたことに、腹を立てたわけではないけれど、黒い影ではなかったことへ安堵と、ビビりすぎていたことへの気恥ずかしさから、俺は責めるような口調で言った。いや、本当は振られたことを見られた上に、洗いざらい全部自分のことをぶちまけてしまった恥ずかしさからだったかもしれない。

「んー? 別にそんなのどうでもいいじゃん」

 視線を逸らして戌井が答える。誤魔化されたような気はした。けれど、俺にとっては(戌井には申し訳ないのだが)本当にどうでもいいことだったから、追及はしなかった。
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