真鍮とアイオライト 1

司書Y

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かの思想家が語るには

貸しだよ 3

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 俺は、はっとして、自分の周りを見回した。あの、黒い影はいない。今朝、家の前では見かけたけれど、図書館に来てからは見ていない。それを確認してから、小柏さんに向かって首を振った。あの黒い影のこと鈴に知られてはいけない。
 けれど、そんなことは所詮綺麗ごとで、それ以上に、どんな顔をして鈴にあったらいいのか分からない。今、顔を見たら、逃げ出してしまうかもしれない。最悪、泣いてしまいそうで怖い。鈴の方はいつも通り訪ねて来てくれただけなのだから、変な対応をしたくない。
 だから、今は会えない。
 と、思っていたけれど、諦めてもいた。空気の読めない、いや、あえて空気を読まない小柏さんのことだ。俺が嫌がったって鈴の前に引っ張り出すことだろう。黒い影は見えないから、そのことだけは救いだけれど、気が重い。

 ため息をついた俺を、けれど、小柏さんはじっと見つめてから、カウンターの方に顔を引っ込めた。

 いつもなら、俺がそんな対応をしたら、嬉々として嫌がることをする人なのにどうしたんだろう。そう思いながらも、彼女の気が変わらないうちに、バックヤードの方に引っ込む。
 椅子に座ると、なんだかどっと疲れが出た。
 鈴に会うのは怖い。
 でも、顔は見たかった。
 それが、子供の我儘みたいだとは思う。
 こんなことばかりを考えているから、罰が当たってあんな変なものに付きまとわれているんだ。きっと、神様(?)が、鈴との距離を置かせるために、俺にあんなものをくっつけてきたんだ。
 半ばやけになって、そんなことを考える。
 けれど、考えて見えれば、いい機会なのかもしれない。どちらにせよ、あいつがいる間は、鈴には近づけない。あれが諦めて離れていく頃には、きっと、鈴への思いも少しは落ち着いているだろう。

「池井君」

 後ろから声をかけられて俺ははっとして振り返った。その瞬間、背中が痛んで、隠す間もなく蹲ってしまう。

「ああ。だから、帰れって言ったでしょ」

 蹲る俺の背中を、珍しく、優しく、擦ってくれたのは小柏さんだった。
 不思議なことに、それだけで、少し、痛みが軽くなった気がした。

「忙しくて手を離せないって言ったら、北島君帰っちゃったよ?」

 背中から手を離して、俺の身体を起こさせて彼女が言う。責めるような響きはない。

「すんません。嘘つかせて」

 彼女はこう見えてもかなり優秀な図書館司書だ。利用者さんに嘘を吐くなんてことは普段は絶対にない。人格的にはアレな人だが、俺は司書としての小柏さんを尊敬していた。

「貸しだよ」

 にや。と、笑った彼女はそれでもいつものように俺をからかったり責めたりすることはなかった。

「てか、池井君、スマホ見てない? 北島君、今日、カウンター何時かLINEで聞いたけど、返事なかったって言ってたよ」

 小柏さんに言われて、俺は呆けてしまった。
 別に鈴から毎日LINEが来るわけじゃないけど、LINEが来ても何と返していいか分からなくて、びくびくしていたから、届いていたなら気付かないはずがない。
 けれど、ポケットから取り出したスマホにはLINEの着信が何件も表示されていた。

「あ。病院にいたから?」

 驚いた顔をしている俺に、小柏さんが問いかけてきた。確かに、病院にいる間、マナーモードにしてはいた。だから、その間の着信に気付かないのは分かる。けれど、病院から出た時、のLINEは何件か入っていた。昨日の事故で家族や職場にも連絡は何度もしているから、スマホは何度も確認している。
 それなのに、俺は鈴のLINEに気付いてはいなかった。

「ごめん。軽トラに喧嘩売られたって、教えちゃったけど、ダメだった?」

 小柏さんが、聞いている。けれど、その声はよく聞こえなかった。ただ、スマホの画面を見たまま固まっていた。なにか、とても、悪い予感がする。これは、ただ、LINEに気付いていないとか、そういう話じゃない。そう、思う。
 そんなことを考えて、動けずにいると、時間経過でディスプレイがオフになる瞬間。真っ暗くなった画面の奥から、何かのこちらを見ていた。

「あ」

 それは、血走った赤い目をしていた。
 それは、闇を裂くような口の端に何か光るものを滴らせていた。
 それは、避けた口から生臭い吐息を撒き散らしていた。
 それは、赤い目と、口を弓形にしならせていた。

 それは、ディスプレイの黒よりもっと深い黒だった。

 思わず、スマホを取り落とす。
 ごと。と、鈍い音を立てて、それは床に落ちた。

「池井君」

 ぽん。と、肩に手を置いて、小柏さんが言う。

「やっぱり、今日は休んだ方が正解だったか」

 それから、ゆっくりと、綺麗な仕草で俺のスマホを拾って、まるで埃を払うかのように、ぱん。と、その画面を叩いてから、俺の方に差し出した。

「…ありがとうございます」

 受け取ったスマホの画面には何もない。見間違いだったんだろうか。

「今日はもう、帰った方がいい。顔色もよくない」

 そう言い残して、小柏さんは、バックヤードを出て行った。
 後に残った俺は、また、そこに何かが映りそうな気がして、暗くなったままのスマホの画面からずっと、目を離すことができなかった。
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