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かの思想家が語るには
暴風雨 4
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「よ。お待たせ」
聞こえてきた声に、涙でぐちゃぐちゃになった顔を上げると、そこには、にか。と、笑う男がいた。
「戌井?」
涙で視界は霞んでいるから、しっかりと確認できたわけじゃない。けれど、口角が上がった顔は、確かに笑っているようだった。
「ほれ」
俺の隣の地面にじかに座って、彼はチューハイの缶を差し出していた。
「は?」
意味が分からずに疑問符を返すと、無理矢理手を取って握らされる。それから、疑問符が浮かんだままの俺を無視して戌井は自分が持っているビールの缶のプルトップを立てた。ぷしゅ。と、小気味いい音が響く。
「ほら、お前も開けろよ」
言われて缶を見つめる。けれど、開ける気にはならなくて、首を横に振ると、戌井は俺の手からそれを取って、口を開け、もう一度俺の手に戻す。
「よし。じゃ、乾杯」
それでもまだ、戌井の意図がよくわからなくて、呆けている俺の手の中の缶に自分の缶をこつん。と、当てて戌井は自分の分を一気に飲み始めた。喉が鳴る音が響くくらいに豪快に。
「ぷはぁっ!」
350ml缶を、一気に飲み干して、どこぞのビール会社のCMのような息を吐いて、戌井は俺に視線を向ける。
「飲んだら? おごりだぞ」
空になった缶を地面に置いてから、靴の裏で潰して、それをわきに追いやって、戌井がビニール袋に手を突っ込む。出てきた手には別の銘柄のビールが握られていた。
「いいよ。俺……」
そこまで来てようやく、戌井が俺を慰めるために酒を買って戻って来てくれたのだと気付いた。それは、すごくありがたいことだと思うのだけれど、応える心の余裕がない。何をしたって元気になれる気がしない。戌井を失望させるだけだ。
「も。わかってんだろ? 失恋したの。相手見た? ああ。そう。あのイケメン。まあ、女子高生の方だとしても無理あるけど……。てか、無理にきまってんじゃんな? 俺、キモくない? うまくいかないのなんてわかってたよ」
ただ、慰めなんてしてもらう価値が自分にないことを言いたいだけだった。俺のために戌井の時間を無駄に使わせるのは悪いし、こんな恥ずかしいこと誰かに知られたくなかった。
でも、それも上手く説明できなくて、ただの愚痴みたいになってしまって、それを聞かれたら、もうどうでもよくなってしまって、言葉が止まらなくなった。
「みんなダメだって言うんだ。こうなるのがわかってたからだ。俺だって知ってた。でも、鈴君が優しいから。や。ちが……鈴君は悪くなくて。俺がふらふらと危なっかしいから。でも。でも……放っておいてほしかった。気づかせないでほしかった。
うわ。何言ってんの? 俺。最悪だ」
言葉を止めたくて、俺は手に持っていたチューハイの缶をあおる。にがい。少しも美味くは感じなかった。
「別に。失恋なんてそんなもんだろ? てかさ。池井、あの兄ちゃんは確かにイケメンだけどさ。相手がどんなでも同じじゃね? 舞い上がって、好きになって、勘違いしたり、ライバルがいて凹んだり。
お前、失恋とかはじめてなん? 俺なんて、何回もしてっけど?」
二本目のビールに口をつけたから、少しソッポを向いて、戌井は言った。
「世界中でお前だけがそんな思いしていると思ったら大間違い。
俺なんかさ。中学時代には好きなやつに別のヤツに告白する手伝いさせられるしさ。引っ越したら、連絡ももらえないしさ。それでも諦めきれなくて、思い続けたのに再会したら顔も忘れられてるわけ。情けなさなら、負けてないぞ?」
ビニール袋の中を探って、中からさ〇るチーズを取り出して、点線で切って、片方を俺に渡して、その間ずっと、視線を逸らしたまま戌井は言った。
確かに、中学時代から同じ人を好きで、その人にフラれ続けているとか、情けない。俺と同等かもしれない。
「お前。好きなやつとか……いたの?」
中学時代を思い出そうとしても、擦り切れた心には思い出は浮かんでこなかった。ただ、俺の初恋の図書委員の保科さんは、告白ができないまま休みがちになって、転校していったことだけ、記憶の片隅に残っている。最後に見た彼女は青白くやせ細って、物影を見てはびくびくと怯えていた。
「は? あ。うん。そういう反応なわけか……。ま、いいや。」
俺の問いに、微妙な返事を返して、戌井はさけ〇チーズをさいてくわえる。
「とにかくだ。俺の情けない失恋談を話してやるから、お前は参考にして、正しく落ち込め」
ばん。と、背中を叩かれて、俺は思わずむせってしまった。叩かれた背中が痛い。そういえば、今日、脚立から落ちたんだった。そのとき、ぶつけたんだろうか。
そのことで、ふと、思い出す。
辺りを見回すと、座り込んで酒を飲んでいる若者を胡散臭げに見て通り過ぎていく年配の夫婦がいた。そういえば、往来だった。何人かの人が、足早に通り過ぎていく。
けれど、あの黒い影は見えない。
ああいう類のものは、往々にして感情が落ち込んでいるときに付け込んでくる。だから、あいつがいないことには少しだけ違和感がした。
「おら。きけよ。俺の第一の失恋はだな……」
けれど、そんな違和感は、戌井の幼稚園時代の保育士さんへの淡い恋心と、その人の結婚話からはじまる幾多の失恋話に消えていった。
聞こえてきた声に、涙でぐちゃぐちゃになった顔を上げると、そこには、にか。と、笑う男がいた。
「戌井?」
涙で視界は霞んでいるから、しっかりと確認できたわけじゃない。けれど、口角が上がった顔は、確かに笑っているようだった。
「ほれ」
俺の隣の地面にじかに座って、彼はチューハイの缶を差し出していた。
「は?」
意味が分からずに疑問符を返すと、無理矢理手を取って握らされる。それから、疑問符が浮かんだままの俺を無視して戌井は自分が持っているビールの缶のプルトップを立てた。ぷしゅ。と、小気味いい音が響く。
「ほら、お前も開けろよ」
言われて缶を見つめる。けれど、開ける気にはならなくて、首を横に振ると、戌井は俺の手からそれを取って、口を開け、もう一度俺の手に戻す。
「よし。じゃ、乾杯」
それでもまだ、戌井の意図がよくわからなくて、呆けている俺の手の中の缶に自分の缶をこつん。と、当てて戌井は自分の分を一気に飲み始めた。喉が鳴る音が響くくらいに豪快に。
「ぷはぁっ!」
350ml缶を、一気に飲み干して、どこぞのビール会社のCMのような息を吐いて、戌井は俺に視線を向ける。
「飲んだら? おごりだぞ」
空になった缶を地面に置いてから、靴の裏で潰して、それをわきに追いやって、戌井がビニール袋に手を突っ込む。出てきた手には別の銘柄のビールが握られていた。
「いいよ。俺……」
そこまで来てようやく、戌井が俺を慰めるために酒を買って戻って来てくれたのだと気付いた。それは、すごくありがたいことだと思うのだけれど、応える心の余裕がない。何をしたって元気になれる気がしない。戌井を失望させるだけだ。
「も。わかってんだろ? 失恋したの。相手見た? ああ。そう。あのイケメン。まあ、女子高生の方だとしても無理あるけど……。てか、無理にきまってんじゃんな? 俺、キモくない? うまくいかないのなんてわかってたよ」
ただ、慰めなんてしてもらう価値が自分にないことを言いたいだけだった。俺のために戌井の時間を無駄に使わせるのは悪いし、こんな恥ずかしいこと誰かに知られたくなかった。
でも、それも上手く説明できなくて、ただの愚痴みたいになってしまって、それを聞かれたら、もうどうでもよくなってしまって、言葉が止まらなくなった。
「みんなダメだって言うんだ。こうなるのがわかってたからだ。俺だって知ってた。でも、鈴君が優しいから。や。ちが……鈴君は悪くなくて。俺がふらふらと危なっかしいから。でも。でも……放っておいてほしかった。気づかせないでほしかった。
うわ。何言ってんの? 俺。最悪だ」
言葉を止めたくて、俺は手に持っていたチューハイの缶をあおる。にがい。少しも美味くは感じなかった。
「別に。失恋なんてそんなもんだろ? てかさ。池井、あの兄ちゃんは確かにイケメンだけどさ。相手がどんなでも同じじゃね? 舞い上がって、好きになって、勘違いしたり、ライバルがいて凹んだり。
お前、失恋とかはじめてなん? 俺なんて、何回もしてっけど?」
二本目のビールに口をつけたから、少しソッポを向いて、戌井は言った。
「世界中でお前だけがそんな思いしていると思ったら大間違い。
俺なんかさ。中学時代には好きなやつに別のヤツに告白する手伝いさせられるしさ。引っ越したら、連絡ももらえないしさ。それでも諦めきれなくて、思い続けたのに再会したら顔も忘れられてるわけ。情けなさなら、負けてないぞ?」
ビニール袋の中を探って、中からさ〇るチーズを取り出して、点線で切って、片方を俺に渡して、その間ずっと、視線を逸らしたまま戌井は言った。
確かに、中学時代から同じ人を好きで、その人にフラれ続けているとか、情けない。俺と同等かもしれない。
「お前。好きなやつとか……いたの?」
中学時代を思い出そうとしても、擦り切れた心には思い出は浮かんでこなかった。ただ、俺の初恋の図書委員の保科さんは、告白ができないまま休みがちになって、転校していったことだけ、記憶の片隅に残っている。最後に見た彼女は青白くやせ細って、物影を見てはびくびくと怯えていた。
「は? あ。うん。そういう反応なわけか……。ま、いいや。」
俺の問いに、微妙な返事を返して、戌井はさけ〇チーズをさいてくわえる。
「とにかくだ。俺の情けない失恋談を話してやるから、お前は参考にして、正しく落ち込め」
ばん。と、背中を叩かれて、俺は思わずむせってしまった。叩かれた背中が痛い。そういえば、今日、脚立から落ちたんだった。そのとき、ぶつけたんだろうか。
そのことで、ふと、思い出す。
辺りを見回すと、座り込んで酒を飲んでいる若者を胡散臭げに見て通り過ぎていく年配の夫婦がいた。そういえば、往来だった。何人かの人が、足早に通り過ぎていく。
けれど、あの黒い影は見えない。
ああいう類のものは、往々にして感情が落ち込んでいるときに付け込んでくる。だから、あいつがいないことには少しだけ違和感がした。
「おら。きけよ。俺の第一の失恋はだな……」
けれど、そんな違和感は、戌井の幼稚園時代の保育士さんへの淡い恋心と、その人の結婚話からはじまる幾多の失恋話に消えていった。
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