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かの思想家が語るには
暴風雨 2
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息が切れて走れなくなるまで俺はがむしゃらに走った。行く先を決めていたわけじゃないから、どこをどう走ったかなんて覚えていない。ただ、気付くと、駅の近くまで来ていた。
だんだん走る速度が遅くなって、歩くくらいになって、立ち止まって、駅前の喫茶店の壁に手をついて、荒い息を吐く。
通り過ぎる人がちらちらと視線を寄越すけれど、正直その人たちに自分がどう見えているかなんて、気にしている余裕はなかった。
ぽた。と、俯いた顔から地面に雫が落ちる。こんなに汗だくになるほど走ったのはいつ以来だっけ? と、思う。きっと、高校のシャトルラン以来だ。こんなふうに我を忘れてただ走る機会なんて、社会人になったらなかなかない。状況が状況なら心地いいと感じたかもしれない。
なんて、思っているふりをしていた。
自分自身にすら、誤魔化そうとしていた。
「池井」
後ろから声が聞こえても、俺は振り返らない。相手が誰なのかは分かっている。追いかけてきてくれたことに少し驚く。放っておいてくれた方がよかったとも思う。
一人になりたかった。
一人になりたくなかった。
嵐みたいにいろんな思いが駆け巡っていた。
「大丈夫か?」
「なんで?」
戌井の問いに殆どかぶさるように疑問を返す。けれど、振り向いて顔をあげて戌井の顔を見ることはできない。
「別に…なんでもねえし。なんで俺が大丈夫じゃないとか思ってんの?」
それがただの八つ当たりだということは分かっていた。
けれど、止めることができなかった。
「大体さ。今日は一人で緑風堂でのんびりしようと思ったのに。邪魔せんでくれる? てか、用ないなら、帰れよ。お疲れさん」
最低だ。
言葉では戌井に冷たく言い放ちながら、心では自分で自分を詰る。
戌井に悪意なんてない。純粋に友達を心配してくれているのに、こんな言い方をしていいわけがない。たしかにちょっと迷惑とは思ったけれど、それをぶつけて不快な思いをさせる気なんて、俺にだってなかった。
本当に。なかった。
「池井」
言ってしまった言葉に後悔が押し寄せる。戌井の声に怒ったような響きが全くなかったからだ。
「ん。そか。大丈夫か」
妙に明るい調子の声だった。それでも、俺は顔は上げられなかった。地面に落ちていく雫が、アスファルトに小さな黒い染みを広げているのが見える。それが、汗ではなくて別のものだとわかっていたから、誰にもそんな顔を見られたくなかったから。
分かり切った結末に悲しむ姿すら、きっとほかの人から見たら滑稽だと思う。だから、誰にも見られたくない。恥ずかしくて、情けなくて消えてしまいたかったから、そんな姿を見られたくなかったから、酷い言葉で傷つけてでも、戌井にはどこかに行ってしまってほしかったんだ。それなのに。
「でも。まあ、さ。その…うぜえかもしれんけど、心配くらいしたっていいだろ?」
そう言って、戌井はぽん。と、背中を叩いた。
そうしたら、まるで、心の底に穴が開いたみたいに、感情が溢れ出してしまった。
蛇口が壊れたみたいに涙が次から次へと溢れる。
悲しい。
切ない。
痛い。
苦しい。
好き。
好きで。
消えてしまいたい。
ものすごい暴風雨が身体の中を吹き荒れている。硬くて尖った悲しみや、冷たくて暗い切なさが、吹き荒れる風で舞って、心のあらゆる場所に傷をつける。そこが酷く痛んで、流れ出したものが喉の奥に詰まって息ができない。
でも、どうしていいのかわからないくらいに好きで、愛おしくて、もう、こんなに苦しいなら、このまま溢れ出した感情に埋もれて消えてしまいたい。
鈴が、俺以外の誰かといつか結ばれることなんて分かっていた。分かっていると、思い込もうとしていた。けれど、同時に期待してもいた。万が一でも鈴に選ばれることがあるんじゃないかなんて、虫のいいことを心の奥では夢に見ていた。
そんなことがあるはずがないのに。
覚悟を決めるのを先延ばしにして、好きを募らせて、引き返せないところまで来ていたのに、目をつむって見えないふりをしていた。
こんなにすぐに、その日が来るなんて思っていなかったからだ。
その結果がこれだ。
きっと、この傷は容易に治すことなんてできない。
最悪、治らないかもしれない。
そのくらい、鈴が好きだったのだと、ようやく、自覚した。
兄ちゃんが『全部みたいな顔』って言った意味が、よく分かった。きっと、馬鹿な俺はいつの間にか鈴を自分の全部にしていたんだ。
「無理。一人にして……ほしい」
そのまま座り込んで膝に顔を埋める。他人がどう見ているかとか、もう、どうでもいい。
「んなことできるかよ」
戌井の言葉に首を振る。もう、一歩も動きたくない。
だんだん走る速度が遅くなって、歩くくらいになって、立ち止まって、駅前の喫茶店の壁に手をついて、荒い息を吐く。
通り過ぎる人がちらちらと視線を寄越すけれど、正直その人たちに自分がどう見えているかなんて、気にしている余裕はなかった。
ぽた。と、俯いた顔から地面に雫が落ちる。こんなに汗だくになるほど走ったのはいつ以来だっけ? と、思う。きっと、高校のシャトルラン以来だ。こんなふうに我を忘れてただ走る機会なんて、社会人になったらなかなかない。状況が状況なら心地いいと感じたかもしれない。
なんて、思っているふりをしていた。
自分自身にすら、誤魔化そうとしていた。
「池井」
後ろから声が聞こえても、俺は振り返らない。相手が誰なのかは分かっている。追いかけてきてくれたことに少し驚く。放っておいてくれた方がよかったとも思う。
一人になりたかった。
一人になりたくなかった。
嵐みたいにいろんな思いが駆け巡っていた。
「大丈夫か?」
「なんで?」
戌井の問いに殆どかぶさるように疑問を返す。けれど、振り向いて顔をあげて戌井の顔を見ることはできない。
「別に…なんでもねえし。なんで俺が大丈夫じゃないとか思ってんの?」
それがただの八つ当たりだということは分かっていた。
けれど、止めることができなかった。
「大体さ。今日は一人で緑風堂でのんびりしようと思ったのに。邪魔せんでくれる? てか、用ないなら、帰れよ。お疲れさん」
最低だ。
言葉では戌井に冷たく言い放ちながら、心では自分で自分を詰る。
戌井に悪意なんてない。純粋に友達を心配してくれているのに、こんな言い方をしていいわけがない。たしかにちょっと迷惑とは思ったけれど、それをぶつけて不快な思いをさせる気なんて、俺にだってなかった。
本当に。なかった。
「池井」
言ってしまった言葉に後悔が押し寄せる。戌井の声に怒ったような響きが全くなかったからだ。
「ん。そか。大丈夫か」
妙に明るい調子の声だった。それでも、俺は顔は上げられなかった。地面に落ちていく雫が、アスファルトに小さな黒い染みを広げているのが見える。それが、汗ではなくて別のものだとわかっていたから、誰にもそんな顔を見られたくなかったから。
分かり切った結末に悲しむ姿すら、きっとほかの人から見たら滑稽だと思う。だから、誰にも見られたくない。恥ずかしくて、情けなくて消えてしまいたかったから、そんな姿を見られたくなかったから、酷い言葉で傷つけてでも、戌井にはどこかに行ってしまってほしかったんだ。それなのに。
「でも。まあ、さ。その…うぜえかもしれんけど、心配くらいしたっていいだろ?」
そう言って、戌井はぽん。と、背中を叩いた。
そうしたら、まるで、心の底に穴が開いたみたいに、感情が溢れ出してしまった。
蛇口が壊れたみたいに涙が次から次へと溢れる。
悲しい。
切ない。
痛い。
苦しい。
好き。
好きで。
消えてしまいたい。
ものすごい暴風雨が身体の中を吹き荒れている。硬くて尖った悲しみや、冷たくて暗い切なさが、吹き荒れる風で舞って、心のあらゆる場所に傷をつける。そこが酷く痛んで、流れ出したものが喉の奥に詰まって息ができない。
でも、どうしていいのかわからないくらいに好きで、愛おしくて、もう、こんなに苦しいなら、このまま溢れ出した感情に埋もれて消えてしまいたい。
鈴が、俺以外の誰かといつか結ばれることなんて分かっていた。分かっていると、思い込もうとしていた。けれど、同時に期待してもいた。万が一でも鈴に選ばれることがあるんじゃないかなんて、虫のいいことを心の奥では夢に見ていた。
そんなことがあるはずがないのに。
覚悟を決めるのを先延ばしにして、好きを募らせて、引き返せないところまで来ていたのに、目をつむって見えないふりをしていた。
こんなにすぐに、その日が来るなんて思っていなかったからだ。
その結果がこれだ。
きっと、この傷は容易に治すことなんてできない。
最悪、治らないかもしれない。
そのくらい、鈴が好きだったのだと、ようやく、自覚した。
兄ちゃんが『全部みたいな顔』って言った意味が、よく分かった。きっと、馬鹿な俺はいつの間にか鈴を自分の全部にしていたんだ。
「無理。一人にして……ほしい」
そのまま座り込んで膝に顔を埋める。他人がどう見ているかとか、もう、どうでもいい。
「んなことできるかよ」
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