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かの思想家が語るには
暴風雨 1
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緑風堂に続く路地に入ると、奥から話し声が聞こえてきた。若い女の子の声だ。緑風堂には珍しくない。客の半分以上は若い女性だし、まだ6時にもなっていないから、若い女の子が出歩いていてもおかしくない時間だ。それに、混んでいるときは店の前で待ってもらうこともある。今日は平日で鈴は来ていないはずだからおそらく純粋に緑風堂にお茶とスイーツを楽しみに来たか、猫様のファンなのだろう。俺と同類だ。
さっきから、戌井はしゃべっていない。俺の注意をちゃんと聞いてくれているんだろうか。そんなタイプでもないと思うのだが。
そういえば、にや男も見えない。いや。もしかしたら、いるのかもしれないけれど、視界に入ってこない。入ってこないならその方がいいはずなのだが、見えないなら、見えないで余計に気になるから性質が悪い。
そんなことを考えながら、細い路地を歩く。
もうすぐで、緑風堂が見えてくる。そんなタイミングで、その声が聞こえた。
「わかった」
聞き違えるはずがない声。低くてよく通る柔らかい声。俺が好きな声。好きなのは声だけではないけれど、聞くだけで心臓が跳ねて、冷静でいられなくなる声だ。
鈴が来ている。
声に出さずに思う。
出さなかったのに深い意味はない。多分、隣にいる戌井に聞かれたくなかった。程度の曖昧な理由だ。
「ホント?」
けれど、声をかけなかったのは、それなりに理由がある。
鈴が声をかけた相手が、さっき聞こえた声の主。多分、若い女性だからだ。
「嬉しい」
隠しきれない喜びが滲む声。少しだけ覗き見える店の前に二人の人影。沈んでしまったとはいえ、まだ残っている太陽の残光は明るく、見間違えることなんてない。
一人はとても背が高い。緑風堂の方を向いて、こちらに見えているのは背中だけだだが、鈴だとすぐにわかる。けれど、声をかけることなんてできない。もう一人の人物が近くの高校の制服を着た女の子だったからだ。どこかで、見たことがある気がするのだけれど、思い出せない。
だから。俺は立ち止まった。正確には足が竦んで進めなくなった。
「鈴君、最近、あんまり会ってくれなかったから。私……心配で」
こちらを向いている女の子は可愛らしい子だった。肩に届かないショートボブの髪のどちらかというと、小柄な女の子だ。制服が着崩れていないし、見える限り化粧もほとんどしていない。短い髪を耳にかける所作がぎこちない。もしかしたら、最近まで髪が長かったんだろうかなんて、どうでもいいことがたまに浮かぶ。その細い綺麗な指にきらり。と、指輪が光っているのだけが大人しい印象に少し違和感を与えているような清楚な感じのする女の子だった。
と、俺は彼女の情報を冷静に観察していたわけではない。
ただ、自分との違いに打ちのめされていただけだ。
「大学のお勉強忙しいのはわかるの」
彼女が一歩前へ出て、鈴の服の袖を握る。思いつめたみたいに鈴を見上げる顔。その顔を見て、俺ははっと思い出した。確か、以前、緑風堂から出た鈴を待っていた子だ。俺が歩きで帰ると言ったから、寂しそうにして帰っていった女の子。確か、あのときは背中の真ん中くらいまで届く長くて綺麗なロングヘアだったように思う。
モテることはわかりきっていたことだけれど、目の前で鈴が女の子に声をかけられているのがショックで、彼女の顔はよく覚えていた。
「でも、他に好きな人できたわけじゃないんだよね? 私のことずっと好きだって言ってくれたもんね?」
続いた彼女の言葉に俺は完全に固まった。
「ね? 鈴君。今でもちゃんと私のこと好きだよね?」
わかってはいた。
自分に何度も言い聞かせた。
思春期の少女でもあるまいし、現実が小説みたいに甘いくないことくらい知っている。
何度もシミュレーションして、ダメージを最小限に抑えようとも試みた。
「ああ……。だから。それ……」
けれど、無理だったみたいだ。
鈴の返事が聞こえた瞬間。俺は緑風堂に背を向けて走り出していた。それ以上聞くことも、見ることも無理だと思ったからだ。
後ろから、戌井が俺のことを呼ぶ声が聞こえる。それでも、振り返らずに俺は走った。
さっきから、戌井はしゃべっていない。俺の注意をちゃんと聞いてくれているんだろうか。そんなタイプでもないと思うのだが。
そういえば、にや男も見えない。いや。もしかしたら、いるのかもしれないけれど、視界に入ってこない。入ってこないならその方がいいはずなのだが、見えないなら、見えないで余計に気になるから性質が悪い。
そんなことを考えながら、細い路地を歩く。
もうすぐで、緑風堂が見えてくる。そんなタイミングで、その声が聞こえた。
「わかった」
聞き違えるはずがない声。低くてよく通る柔らかい声。俺が好きな声。好きなのは声だけではないけれど、聞くだけで心臓が跳ねて、冷静でいられなくなる声だ。
鈴が来ている。
声に出さずに思う。
出さなかったのに深い意味はない。多分、隣にいる戌井に聞かれたくなかった。程度の曖昧な理由だ。
「ホント?」
けれど、声をかけなかったのは、それなりに理由がある。
鈴が声をかけた相手が、さっき聞こえた声の主。多分、若い女性だからだ。
「嬉しい」
隠しきれない喜びが滲む声。少しだけ覗き見える店の前に二人の人影。沈んでしまったとはいえ、まだ残っている太陽の残光は明るく、見間違えることなんてない。
一人はとても背が高い。緑風堂の方を向いて、こちらに見えているのは背中だけだだが、鈴だとすぐにわかる。けれど、声をかけることなんてできない。もう一人の人物が近くの高校の制服を着た女の子だったからだ。どこかで、見たことがある気がするのだけれど、思い出せない。
だから。俺は立ち止まった。正確には足が竦んで進めなくなった。
「鈴君、最近、あんまり会ってくれなかったから。私……心配で」
こちらを向いている女の子は可愛らしい子だった。肩に届かないショートボブの髪のどちらかというと、小柄な女の子だ。制服が着崩れていないし、見える限り化粧もほとんどしていない。短い髪を耳にかける所作がぎこちない。もしかしたら、最近まで髪が長かったんだろうかなんて、どうでもいいことがたまに浮かぶ。その細い綺麗な指にきらり。と、指輪が光っているのだけが大人しい印象に少し違和感を与えているような清楚な感じのする女の子だった。
と、俺は彼女の情報を冷静に観察していたわけではない。
ただ、自分との違いに打ちのめされていただけだ。
「大学のお勉強忙しいのはわかるの」
彼女が一歩前へ出て、鈴の服の袖を握る。思いつめたみたいに鈴を見上げる顔。その顔を見て、俺ははっと思い出した。確か、以前、緑風堂から出た鈴を待っていた子だ。俺が歩きで帰ると言ったから、寂しそうにして帰っていった女の子。確か、あのときは背中の真ん中くらいまで届く長くて綺麗なロングヘアだったように思う。
モテることはわかりきっていたことだけれど、目の前で鈴が女の子に声をかけられているのがショックで、彼女の顔はよく覚えていた。
「でも、他に好きな人できたわけじゃないんだよね? 私のことずっと好きだって言ってくれたもんね?」
続いた彼女の言葉に俺は完全に固まった。
「ね? 鈴君。今でもちゃんと私のこと好きだよね?」
わかってはいた。
自分に何度も言い聞かせた。
思春期の少女でもあるまいし、現実が小説みたいに甘いくないことくらい知っている。
何度もシミュレーションして、ダメージを最小限に抑えようとも試みた。
「ああ……。だから。それ……」
けれど、無理だったみたいだ。
鈴の返事が聞こえた瞬間。俺は緑風堂に背を向けて走り出していた。それ以上聞くことも、見ることも無理だと思ったからだ。
後ろから、戌井が俺のことを呼ぶ声が聞こえる。それでも、振り返らずに俺は走った。
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