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かの思想家が語るには
霊道と裏通り 4
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結局、同僚たちに散々心配されながらも、俺は最後まで業務を終わらせて定時の17時で職場を後にした。怪我は大したことはなくて、血が出ているようなところはどこもないし、もちろん、骨に異常があるようなこともない。ただ、きっと時間が経ったらそこら中が青痣になるだろうことは想像できる。
けれど、そのくらいで済んでよかったと思う。脚立から落ちて入院した職員もいたから、俺の反射神経も捨てたもんじゃないと思った。
夕暮れの空は晴れて、きっと明日も寒くなることだろうと思う。それでも、マフラーを巻き直して、手袋をつけると、寒さを遮ることができるようになっているのは、春が近づいてきているからだろうか。
いつもと同じように職員通用口を出て、今日は駐車場ではなく、反対の方向に向かう。緑風堂へ向かうためだ。週に一度の至福の時間。特に今日は嫌なことが多かったから、緑風堂のアイドルたちに会えるのが楽しみで足が速くなる。
けれど、ふと、視界の端に映った影に俺はため息をついた。
にや男だ。
また、口は半月の形に裂けている。裂けた口から洩れる言葉が、書庫にいた時より大きくなっている。黄昏が近づいているからだ。けれど、何と言っているか、まだ、わからない。
できるだけ、そちらを見ないようにして、市民センターの敷地から道路に出る。そこで、俺は立ち止まった。
「よう」
声をかけられて、一瞬戸惑う。あれは誰だ?
それから、こんなことが何度もあったと思う。
思ってから、気付く。
「戌井」
市民センターから、公道にでるあたりに、彼は立っていた。戌井だ。相変わらず、特徴のない顔のせいなのか、思ってしまう。
こんな顔だったっけ?
でも、思い出してしまうと、戌井だと分かるし、何故迷ったのか分からなくなる。特徴がないと言っても、何度か会っているから、俺が人の顔を覚えるのが苦手でも、さすがにもう覚えた。
「どうしたんだ? 仕事帰り?」
誤魔化すように俺が聞くと、戌井は笑いながら近づいてきた。
ふと、あのときの匂い。ちら。と、視線をにや男に向けると、また、表情がなくなっている。
「や。今日は池井を待ってた」
俺の隣に並んで、戌井が言う。
「え? なんか用?」
昨夜もあったばっかりだというのに、何か用でもあるのだろうか。できれば、今は一人でいたい。変なものに付きまとわれているから、戌井にとばっちりがいってしまうと困る。
「別に用って言うわけでもないけどさ。池井の顔見たくなって」
それが、どういう意味か俺には分からなかった。
「は? 昨日会ったばっかじゃん」
だから、そんなふうに答えた。友達に会いたいと思うときはあるけれど、大抵は長く会っていないからとか、どうしても一緒に何かしたいとか、そんな理由で、用がないのに顔を見たいから、職場の外で待っているなんて、あんまりないことだと思う。
「別にいいだろ? な。メシ食いに行こうぜ」
腕を掴まれてぐい。と、引かれる。
少し強引な態度に俺は、呆れてしまった。いや、むっとしたと言ってもいい。
朝、LINEしたときに会いに来るとアポを取らなかったことも、危ないかもしれないのに(戌井は何も知らないからこれはただの八つ当たりなのだが)職場の前で出待ちされたことも、緑風堂のアイドルたちに会いに行くのを邪魔されたことも、俺にとっては戸惑いというよりも、不快だった。
「やだよ。俺、これから行くとこある」
だから、掴まれた手を引きはがして、俺は歩き始めた。
元々、自分の行動を誰かに束縛されるのは好きじゃない。どちらかというと、一人でいるのを好むし、たまにならいいけれど、疲れているときに騒がしい場所で過ごすのも好きじゃない。今日は、緑風堂のいつものカウンター席で紅を膝にのせて思う存分に撫でたい。緑の美声を聞きたい。紺にしっぽではたかれたい。
不思議なことに、緑風堂の3猫神と戯れると、その日の夜は変なものを見ることが少ない。だから、今日はどうしても緑風堂に行きたかった。
「どこだよ? 俺も一緒に行っていい?」
そう言われて、咄嗟に答えに詰まる。緑風堂に友達を連れて行ったことはある。図書館の司書仲間を連れて行ったら、すごく喜んで常連になった人もいる。
司書仲間は大抵、元々物静かだったり、静かな場所では空気が読める人ばかりだ。でなければ、司書は務まらない。けれど、戌井にあの店は似合わない気がした。
こんなふうに、緑風堂で強引な行動はされたくない。
「何? 隠すようなヤバいとこ?」
にやり、と、笑って戌井が言う。別にこんなノリがダメと言うわけではない。あくまで、『俺は』だが。けれど、猫様には嫌われそうだ。とくに紺。こいつを連れて行ったことで、俺まで嫌われたくない。
「いや、そうじゃないけど…」
でも、なんと言って断ったらいいのか、わからない。よくお人好しとか、優柔不断とか、押しに弱いとか言われるけれど、その通りだ。自分でも、自覚している。
「じゃいいじゃん。どこ行くんだ?」
ずい。っと、顔を寄せられて、避けながら、俺はまたため息をつく。
仕方ない。
今日は、どうしても緑風堂に行きたい。だから、この際、余計な同行者には目をつむることにした。なるべく、猫様に近付かせないように注意しようと、心に決める。
「…お茶屋さんだよ。カフェもやってる。静かな店だから、大人しくしててくれよ? 俺まで、出入り禁止になったら、一生恨むからな」
緑風堂の方向に向かって歩き出すと、本当に分かっているのかよく分からないが、戌井は『おう』と、答える。それがまた調子がいいから、ため息がもれた。
俺の憂鬱成分を多量に含んだため息は、まだまだ寒い空気に溶けて、消えていく。その様子を見つめる黒い影の輪郭がそのため息と同じように、希薄になって滲んだことに俺は気づいてはいなかった。
けれど、そのくらいで済んでよかったと思う。脚立から落ちて入院した職員もいたから、俺の反射神経も捨てたもんじゃないと思った。
夕暮れの空は晴れて、きっと明日も寒くなることだろうと思う。それでも、マフラーを巻き直して、手袋をつけると、寒さを遮ることができるようになっているのは、春が近づいてきているからだろうか。
いつもと同じように職員通用口を出て、今日は駐車場ではなく、反対の方向に向かう。緑風堂へ向かうためだ。週に一度の至福の時間。特に今日は嫌なことが多かったから、緑風堂のアイドルたちに会えるのが楽しみで足が速くなる。
けれど、ふと、視界の端に映った影に俺はため息をついた。
にや男だ。
また、口は半月の形に裂けている。裂けた口から洩れる言葉が、書庫にいた時より大きくなっている。黄昏が近づいているからだ。けれど、何と言っているか、まだ、わからない。
できるだけ、そちらを見ないようにして、市民センターの敷地から道路に出る。そこで、俺は立ち止まった。
「よう」
声をかけられて、一瞬戸惑う。あれは誰だ?
それから、こんなことが何度もあったと思う。
思ってから、気付く。
「戌井」
市民センターから、公道にでるあたりに、彼は立っていた。戌井だ。相変わらず、特徴のない顔のせいなのか、思ってしまう。
こんな顔だったっけ?
でも、思い出してしまうと、戌井だと分かるし、何故迷ったのか分からなくなる。特徴がないと言っても、何度か会っているから、俺が人の顔を覚えるのが苦手でも、さすがにもう覚えた。
「どうしたんだ? 仕事帰り?」
誤魔化すように俺が聞くと、戌井は笑いながら近づいてきた。
ふと、あのときの匂い。ちら。と、視線をにや男に向けると、また、表情がなくなっている。
「や。今日は池井を待ってた」
俺の隣に並んで、戌井が言う。
「え? なんか用?」
昨夜もあったばっかりだというのに、何か用でもあるのだろうか。できれば、今は一人でいたい。変なものに付きまとわれているから、戌井にとばっちりがいってしまうと困る。
「別に用って言うわけでもないけどさ。池井の顔見たくなって」
それが、どういう意味か俺には分からなかった。
「は? 昨日会ったばっかじゃん」
だから、そんなふうに答えた。友達に会いたいと思うときはあるけれど、大抵は長く会っていないからとか、どうしても一緒に何かしたいとか、そんな理由で、用がないのに顔を見たいから、職場の外で待っているなんて、あんまりないことだと思う。
「別にいいだろ? な。メシ食いに行こうぜ」
腕を掴まれてぐい。と、引かれる。
少し強引な態度に俺は、呆れてしまった。いや、むっとしたと言ってもいい。
朝、LINEしたときに会いに来るとアポを取らなかったことも、危ないかもしれないのに(戌井は何も知らないからこれはただの八つ当たりなのだが)職場の前で出待ちされたことも、緑風堂のアイドルたちに会いに行くのを邪魔されたことも、俺にとっては戸惑いというよりも、不快だった。
「やだよ。俺、これから行くとこある」
だから、掴まれた手を引きはがして、俺は歩き始めた。
元々、自分の行動を誰かに束縛されるのは好きじゃない。どちらかというと、一人でいるのを好むし、たまにならいいけれど、疲れているときに騒がしい場所で過ごすのも好きじゃない。今日は、緑風堂のいつものカウンター席で紅を膝にのせて思う存分に撫でたい。緑の美声を聞きたい。紺にしっぽではたかれたい。
不思議なことに、緑風堂の3猫神と戯れると、その日の夜は変なものを見ることが少ない。だから、今日はどうしても緑風堂に行きたかった。
「どこだよ? 俺も一緒に行っていい?」
そう言われて、咄嗟に答えに詰まる。緑風堂に友達を連れて行ったことはある。図書館の司書仲間を連れて行ったら、すごく喜んで常連になった人もいる。
司書仲間は大抵、元々物静かだったり、静かな場所では空気が読める人ばかりだ。でなければ、司書は務まらない。けれど、戌井にあの店は似合わない気がした。
こんなふうに、緑風堂で強引な行動はされたくない。
「何? 隠すようなヤバいとこ?」
にやり、と、笑って戌井が言う。別にこんなノリがダメと言うわけではない。あくまで、『俺は』だが。けれど、猫様には嫌われそうだ。とくに紺。こいつを連れて行ったことで、俺まで嫌われたくない。
「いや、そうじゃないけど…」
でも、なんと言って断ったらいいのか、わからない。よくお人好しとか、優柔不断とか、押しに弱いとか言われるけれど、その通りだ。自分でも、自覚している。
「じゃいいじゃん。どこ行くんだ?」
ずい。っと、顔を寄せられて、避けながら、俺はまたため息をつく。
仕方ない。
今日は、どうしても緑風堂に行きたい。だから、この際、余計な同行者には目をつむることにした。なるべく、猫様に近付かせないように注意しようと、心に決める。
「…お茶屋さんだよ。カフェもやってる。静かな店だから、大人しくしててくれよ? 俺まで、出入り禁止になったら、一生恨むからな」
緑風堂の方向に向かって歩き出すと、本当に分かっているのかよく分からないが、戌井は『おう』と、答える。それがまた調子がいいから、ため息がもれた。
俺の憂鬱成分を多量に含んだため息は、まだまだ寒い空気に溶けて、消えていく。その様子を見つめる黒い影の輪郭がそのため息と同じように、希薄になって滲んだことに俺は気づいてはいなかった。
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