真鍮とアイオライト 1

司書Y

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かの思想家が語るには

霊道と裏通り 3

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 その瞬間。生臭い匂い。
 この匂いはどこかで嗅いだことがある。

 ああ。そうだ。
 俺は思う。

 子供の頃。
 ドッヂボールの球が顔面直撃したときのあの匂い。

 考えを巡らせた瞬間に、ぐらり。と、足もとが揺れた。

「え?」

 三段ほど上がっていた脚立の足元がいきなり揺れて、大きく傾く。まるで、何かがぶち当たってきたような衝撃だった。

「うあっ」

 本を抱えたまま近くの書棚に掴まる。この時、脚立の手すり部分でなく、寄せてあった書棚に掴まったのと、図書館の本を投げ出さなかったことは後になって自分をほめてもいいと思った。
 とにかく、脚立は大きく傾いたのだが、書棚に掴まったことで、倒れるまではいかなかった。結局足を踏み外して、脚立からは滑り落ちたけれど。

「い…て」

 強かにぶつけた脛が痛む。書棚に掴まった腕もずり落ちて、ぶつけて思わず瞳の端に涙が溜まった。

「何の音?」

 いつの間にか、地下の備品庫の方に降りて来ていた人がいたらしい。脚立の傾く音に驚いて、母親ほども歳の離れた同僚が声をかけてくれた。

「落ちたの!? 大丈夫池井君」

 座り込んだまま痛くて立ち上がれない俺に驚いて、彼女はすぐに駆け寄ってきた。その彼女の向こう側、書棚と、書棚の間にするり。と、入り込んで暗がりの中に溶けるように消えた影。

「や。大丈夫。大した事ないです。すんません」

 心配してくれる同僚に返事を返しながら、俺は思う。いや、何故だかは分からないけれど、確信した。脚立を倒そうとしたのは、あの影だ。悪意を持って、俺を攻撃してきた。と。それは、いつもの当てにならない感覚とは違う。心に刻み込まれた確定事項だった。

「これ。ヤバい…かな?」

 呟いた言葉が怪我のことと勘違いした同僚が慌てて主任を呼びに走り出す。止める間もなく一人になって、ふと気づくと、あのにや男が書棚と書棚の間から顔を半分出していた。その口はいつもの半月型ではない。いや、口自体が見えない。最初に見かけた時と同じ、つるりとした黒一色の顔。表情なんて何もないのに、それはまるで憤怒を抑え込んでいるように見えた。
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