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かの思想家が語るには
吾輩は寂しいと死んじゃうにゃ 1
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ねちゃり、と、嫌な感触がしたのは、さすがに気のせいだと思う。別に素肌に触れたわけでもない。
けれど、俺は無意識にそれを振り払っていた。
「うわ」
振り払った勢いのまま、逃げ出そうと思っていた俺の耳に、さっきまでの気味の悪い声とは別のいたって普通の驚きの声が聞こえてきた。だから、恐る恐る顔を上げる。
そこには見知った顔があった。
「…えと」
一瞬、戸惑う。見知った顔なのに、名前が出てこない。
つい最近、見たはずなのに。と、思って、最近の出来事を脳内検索して、ようやく思い当たることがあった。
「…戌井?」
同級会で再会した、中学時代の同級生。酔っ払っていたから、名前が思い出せなかった相手。笑って許してくれたのに、また、記憶が曖昧になっていた。それも、酔っていたからだろうか。それとも、単に俺が薄情なんだろうか。
「おう。偶然だな。仕事帰り?
どうした? 慌ててたみたいだけど」
俺がまた、名前を忘れかけていたことなんて、気づきもしないで、戌井はにこやかに言った。
「あ……うん。や……あれ?」
戌井の言葉で、はっとして、あたりを見回しても、もう、あの気味が悪い男は消えていた。耳をすませば表通りの喧騒が少しだけ伝わってくる。けれど、遠くに人が歩いているし、少しだけ見える大通りには車が走っているのも見えた。いつも通りの帰り道だ。
「どうした? あ、もしかして、変なのにつけられてたとか?」
いきなり核心をつかれて、俺はぎょっとした。確かに、つけられていたかも知れないけれど、急いでいたのを見ただけで、そんなふうに思うだろうか? 普通なら電車に遅れそうとか、待ち合わせ時間に間に合わせようとしているとか、もっと、平和的な回答が浮かぶはずだ。
「おととい、隣の市で強盗あっただろ? 物騒だよな」
ため息混じりに、俺の隣に並んで、戌井は言った。昨日からニュースなんてまともに見ていない。だから、そんなことがあったなんて知らなかった。同時に、不自然に思っていた“つけられている”が、納得できた。
「まだ捕まってないらしいぞ? 実は俺もひびってたんだけど、池井、電車? 一緒に行こうぜ」
俺の返事も聞かず、戌井は歩き始める。俺は電車ではないけれど、駐車場は駅の方角だ。何より、戌井とは違う意味でだが、このあと、一人で歩くのは、気が進まない。
そっと後ろを振り返る。そこにはやはり、誰もいない。しかし、何だか、ふりかえってみるその場所の方が空気に交じる不純物が多いような感じがした。そこに何かがいて、人が吐息を吐くように、代わりに“悪意”を吐いていた。そんな想像が頭を過って、思わず背筋が寒くなる。
だから、俺は、早足で戌井の隣に並んだ。
「俺、車なんだよ。駅行く途中に駐車場あるから、そっからは車で送る」
戌井の歩調に追いついてそう言うと、彼は少しだけこっちを振り向いて、また前を向いた。
不思議なもので、隣を知っている人が歩いているだけで、得体のしれないものに対する恐怖のようなものが、少し収まった気がする。まだ、この薄暗い路地は“ヤツら”の領域内なのに、俺以外の誰かといれば大丈夫と謎の安心感が湧いてきた。
「マジで? じゃ、駅まで乗せってよ。近いけど」
にか。と、戌井が笑う。口角が上がって、犬歯が覗く。
ああ。こんなふうに笑うやつだったっけ。と、思うけれど、よく思い出せない。あの頃の自分は積極的に世界にかかわろうとはしていなかったし、中学を卒業したのだって10年も前の話だ。記憶が曖昧になっても仕方ない。
「了解」
答えて俺は前を向いた。
けれど、俺は無意識にそれを振り払っていた。
「うわ」
振り払った勢いのまま、逃げ出そうと思っていた俺の耳に、さっきまでの気味の悪い声とは別のいたって普通の驚きの声が聞こえてきた。だから、恐る恐る顔を上げる。
そこには見知った顔があった。
「…えと」
一瞬、戸惑う。見知った顔なのに、名前が出てこない。
つい最近、見たはずなのに。と、思って、最近の出来事を脳内検索して、ようやく思い当たることがあった。
「…戌井?」
同級会で再会した、中学時代の同級生。酔っ払っていたから、名前が思い出せなかった相手。笑って許してくれたのに、また、記憶が曖昧になっていた。それも、酔っていたからだろうか。それとも、単に俺が薄情なんだろうか。
「おう。偶然だな。仕事帰り?
どうした? 慌ててたみたいだけど」
俺がまた、名前を忘れかけていたことなんて、気づきもしないで、戌井はにこやかに言った。
「あ……うん。や……あれ?」
戌井の言葉で、はっとして、あたりを見回しても、もう、あの気味が悪い男は消えていた。耳をすませば表通りの喧騒が少しだけ伝わってくる。けれど、遠くに人が歩いているし、少しだけ見える大通りには車が走っているのも見えた。いつも通りの帰り道だ。
「どうした? あ、もしかして、変なのにつけられてたとか?」
いきなり核心をつかれて、俺はぎょっとした。確かに、つけられていたかも知れないけれど、急いでいたのを見ただけで、そんなふうに思うだろうか? 普通なら電車に遅れそうとか、待ち合わせ時間に間に合わせようとしているとか、もっと、平和的な回答が浮かぶはずだ。
「おととい、隣の市で強盗あっただろ? 物騒だよな」
ため息混じりに、俺の隣に並んで、戌井は言った。昨日からニュースなんてまともに見ていない。だから、そんなことがあったなんて知らなかった。同時に、不自然に思っていた“つけられている”が、納得できた。
「まだ捕まってないらしいぞ? 実は俺もひびってたんだけど、池井、電車? 一緒に行こうぜ」
俺の返事も聞かず、戌井は歩き始める。俺は電車ではないけれど、駐車場は駅の方角だ。何より、戌井とは違う意味でだが、このあと、一人で歩くのは、気が進まない。
そっと後ろを振り返る。そこにはやはり、誰もいない。しかし、何だか、ふりかえってみるその場所の方が空気に交じる不純物が多いような感じがした。そこに何かがいて、人が吐息を吐くように、代わりに“悪意”を吐いていた。そんな想像が頭を過って、思わず背筋が寒くなる。
だから、俺は、早足で戌井の隣に並んだ。
「俺、車なんだよ。駅行く途中に駐車場あるから、そっからは車で送る」
戌井の歩調に追いついてそう言うと、彼は少しだけこっちを振り向いて、また前を向いた。
不思議なもので、隣を知っている人が歩いているだけで、得体のしれないものに対する恐怖のようなものが、少し収まった気がする。まだ、この薄暗い路地は“ヤツら”の領域内なのに、俺以外の誰かといれば大丈夫と謎の安心感が湧いてきた。
「マジで? じゃ、駅まで乗せってよ。近いけど」
にか。と、戌井が笑う。口角が上がって、犬歯が覗く。
ああ。こんなふうに笑うやつだったっけ。と、思うけれど、よく思い出せない。あの頃の自分は積極的に世界にかかわろうとはしていなかったし、中学を卒業したのだって10年も前の話だ。記憶が曖昧になっても仕方ない。
「了解」
答えて俺は前を向いた。
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