114 / 392
かの思想家が語るには
市民センター通用口前 3
しおりを挟む
なんとはなしに、消えていく、吐息の白を見つめていると、後ろから光が近づいてきた。車のヘッドライトがだと、すぐに気付いて、道の脇によける。と、同時に振り返る。
想像通り、眩しい光が近づいてきて、一瞬、目が眩んだ。とっさに視線を伏せると、視界の端、板塀と、道路のアスファルトの間くらいに、おそらく男性ものの靴が見える。そのまま、視線は上へと上がり、くたびれた皺のある黒のスラックスが見え、さらには黒いスーツのジャケット、光の加減で分かりづらいけれど、多分黒のネクタイが見えた。そこまでは普通なのだが、シャツも黒。なにも、持ってはいない手まで黒。皮の手袋だろうか。
視線が移動する。どくん。と、心臓が跳ねる。鈴のときとは違う。高鳴るのではなく、凍りつくような感覚。見てはいけないと、俺の奥の何かが言っている。
それなのに、勝手に頭は、目はそれに引き寄せられてしまった。
それに顔はなかった。少し光沢がある風船のように張りのある印象の顔? いや、頭には、なにもない。正確には凹凸は多少あるのだか、眉も、瞼も、鼻も、唇もない。ただそれのあるはずの場所が少しだけくぼんだり、出っ張ったりして、顔なのかもしれないと思えるだけだ。
その上。黒い。黒いゴム風船そのものだ。
それなのに。
わかってしまった。
それがこちらを見たこと。視線が交錯したこと。
なぜなら、ぱかり。と、顔の下方に亀裂が走ったからだ。それは、徐々に広がって、三日月の形になっていく。顔は黒いのにその裂け目の中は妙に生々しい赤だった。
笑ってる。
その顔が見えた瞬間、ぞっとするような何かが、背筋を駆け上がって頭の奥の危険を察知する部分に突き刺さったような気がした。
繰り返し言うが、俺にしか見えない人(?)たちに対する俺の感覚は全く当てにならない。怪談を読み漁って、似たような話があっても、同じなのかは判別がつかなかったし、結局のところ、怪談話が言っている回答なんて、物語として面白い憶測とか、後付けの言い訳みたいなものだと思い知るだけだった。
だから、なるべく、そんなものとは関わり合いを持たないように過ごしてきた。簡単に言えば、危険だと思ったらすぐに逃げた。逃げられないこともあったけれど、そういう時には大抵それは危険なものではなくて、リマ男のようによく見れば普通の人と変わりがない人ではない何かだった。
けれど、怖い人に見えてもいい人だっている。人にだっていい人と悪い人がいるように、あれらにもいい人と悪い人は存在(?)していると思う。
だから、もし、今日あったこれが、“たまたま”危険なもので、、いつもは逃げ切れていたのに“たまたま”逃げきれずに追いつかれてしまったら。
そこまで、文章にすると長くなるけれど、0.5秒ほどで考える。
それから、すぐに視線を逸らして、元向いていた方向を向いて早足で歩き出した。走り出さなかったのは、それを刺激したくなかったからだ。
とにかく、遠ざからないといけない。そう思った。その感覚が、間違いならそれでもいい。怖がりだな。と、笑い話になるだけだ。
できる限り、足音を殺して(これに意味があるのかは分からないが)できる限り、早足で歩く。
車に乗れば、逃げられる。と、根拠のない思いに縋って歩く。
けれど、聞こえてきた足音。後ろからだ。ついてきてしまった。状況はあまり芳しくない。振り返って確認したいけれど、意識しているのを悟られたくないから、できない。仕方なくさらに足を速めるけれど、後ろからついてくる足音も同じだけ早くなるだけだった。
随分昔に、似たような経験をしたことがある。こうやって、誰かに追い掛け回された。あれはいつだったか。確か、中学生の頃だ。こんなふうに得体のしれないものに追いかけられて、家を知られてはいけないと何故か脅迫観念のように感じて、町中を逃げ回った。
あのときは結局どうしたんだっけ。
参考になるかどうかなんてわからない。けれど、今俺が無事でいられるってことはあのときは逃げられたはずだ。何かの足しにはなるかもしれない。
そう思うけれど、あの時どうなったのか、記憶に靄がかかったようで思い出せない。
…えて…だ…。な…き…え…だろ。お…み…る…。
ふと、何かが聞こえてきて、俺はびくり。と、肩を震わせた。それが、囁くような声だと気付くまでに数秒。けれど、歩みを止めることはできなくて、何を言っているかまでは聞き取れない。
聞き取れないくせに、まるで、それは、俺に対しての呪いの言葉のように感じられた。聞きとってはいけないような気がした。
な…き…えてん…ろ?
耳を塞いでしまいたい。けれど、それも出来なくて、また、足を速める。その瞬間、側溝の鉄の蓋に足をとられて転びそうになる。
「うあっ」
何とか道路わきのブロック塀に手をついて転ぶのは免れたけれど、思わず足を止めてしまった。途端にすごい速さで後ろの足音が迫ってくる。
ヤバい。と思ったときにはもう、足音はすぐ後ろまで来ていた。
うふふ。みいつけた。
真後ろから声がする。
ネバついた粘度の高い液体が耳に流し込まれたような気持ちの悪い声だ。薄く笑っているような響きがしている。まるで子供のような口調が気味の悪さをさらに増している。
けれど、やはり、後ろを振り返って見ることはできない。真後ろにあのひび割れた口だけがある顔があったら、その時点で気を失える自信がある。そうしたら、逃げられない。
なあ。あんた、聞こえているんだろ?
俺のこと見えてるんだろ?
声は揺らぎが大きい。さっきまで、気味の悪い子供のような高い声だったはずが、今はひび割れた老人のような声になっている。ただ変わらないのはネバついた歓喜の声色だ。
振り返らず、もう一度歩き出そうとした時だった。
ぽん。
と、肩に何かが乗った。
想像通り、眩しい光が近づいてきて、一瞬、目が眩んだ。とっさに視線を伏せると、視界の端、板塀と、道路のアスファルトの間くらいに、おそらく男性ものの靴が見える。そのまま、視線は上へと上がり、くたびれた皺のある黒のスラックスが見え、さらには黒いスーツのジャケット、光の加減で分かりづらいけれど、多分黒のネクタイが見えた。そこまでは普通なのだが、シャツも黒。なにも、持ってはいない手まで黒。皮の手袋だろうか。
視線が移動する。どくん。と、心臓が跳ねる。鈴のときとは違う。高鳴るのではなく、凍りつくような感覚。見てはいけないと、俺の奥の何かが言っている。
それなのに、勝手に頭は、目はそれに引き寄せられてしまった。
それに顔はなかった。少し光沢がある風船のように張りのある印象の顔? いや、頭には、なにもない。正確には凹凸は多少あるのだか、眉も、瞼も、鼻も、唇もない。ただそれのあるはずの場所が少しだけくぼんだり、出っ張ったりして、顔なのかもしれないと思えるだけだ。
その上。黒い。黒いゴム風船そのものだ。
それなのに。
わかってしまった。
それがこちらを見たこと。視線が交錯したこと。
なぜなら、ぱかり。と、顔の下方に亀裂が走ったからだ。それは、徐々に広がって、三日月の形になっていく。顔は黒いのにその裂け目の中は妙に生々しい赤だった。
笑ってる。
その顔が見えた瞬間、ぞっとするような何かが、背筋を駆け上がって頭の奥の危険を察知する部分に突き刺さったような気がした。
繰り返し言うが、俺にしか見えない人(?)たちに対する俺の感覚は全く当てにならない。怪談を読み漁って、似たような話があっても、同じなのかは判別がつかなかったし、結局のところ、怪談話が言っている回答なんて、物語として面白い憶測とか、後付けの言い訳みたいなものだと思い知るだけだった。
だから、なるべく、そんなものとは関わり合いを持たないように過ごしてきた。簡単に言えば、危険だと思ったらすぐに逃げた。逃げられないこともあったけれど、そういう時には大抵それは危険なものではなくて、リマ男のようによく見れば普通の人と変わりがない人ではない何かだった。
けれど、怖い人に見えてもいい人だっている。人にだっていい人と悪い人がいるように、あれらにもいい人と悪い人は存在(?)していると思う。
だから、もし、今日あったこれが、“たまたま”危険なもので、、いつもは逃げ切れていたのに“たまたま”逃げきれずに追いつかれてしまったら。
そこまで、文章にすると長くなるけれど、0.5秒ほどで考える。
それから、すぐに視線を逸らして、元向いていた方向を向いて早足で歩き出した。走り出さなかったのは、それを刺激したくなかったからだ。
とにかく、遠ざからないといけない。そう思った。その感覚が、間違いならそれでもいい。怖がりだな。と、笑い話になるだけだ。
できる限り、足音を殺して(これに意味があるのかは分からないが)できる限り、早足で歩く。
車に乗れば、逃げられる。と、根拠のない思いに縋って歩く。
けれど、聞こえてきた足音。後ろからだ。ついてきてしまった。状況はあまり芳しくない。振り返って確認したいけれど、意識しているのを悟られたくないから、できない。仕方なくさらに足を速めるけれど、後ろからついてくる足音も同じだけ早くなるだけだった。
随分昔に、似たような経験をしたことがある。こうやって、誰かに追い掛け回された。あれはいつだったか。確か、中学生の頃だ。こんなふうに得体のしれないものに追いかけられて、家を知られてはいけないと何故か脅迫観念のように感じて、町中を逃げ回った。
あのときは結局どうしたんだっけ。
参考になるかどうかなんてわからない。けれど、今俺が無事でいられるってことはあのときは逃げられたはずだ。何かの足しにはなるかもしれない。
そう思うけれど、あの時どうなったのか、記憶に靄がかかったようで思い出せない。
…えて…だ…。な…き…え…だろ。お…み…る…。
ふと、何かが聞こえてきて、俺はびくり。と、肩を震わせた。それが、囁くような声だと気付くまでに数秒。けれど、歩みを止めることはできなくて、何を言っているかまでは聞き取れない。
聞き取れないくせに、まるで、それは、俺に対しての呪いの言葉のように感じられた。聞きとってはいけないような気がした。
な…き…えてん…ろ?
耳を塞いでしまいたい。けれど、それも出来なくて、また、足を速める。その瞬間、側溝の鉄の蓋に足をとられて転びそうになる。
「うあっ」
何とか道路わきのブロック塀に手をついて転ぶのは免れたけれど、思わず足を止めてしまった。途端にすごい速さで後ろの足音が迫ってくる。
ヤバい。と思ったときにはもう、足音はすぐ後ろまで来ていた。
うふふ。みいつけた。
真後ろから声がする。
ネバついた粘度の高い液体が耳に流し込まれたような気持ちの悪い声だ。薄く笑っているような響きがしている。まるで子供のような口調が気味の悪さをさらに増している。
けれど、やはり、後ろを振り返って見ることはできない。真後ろにあのひび割れた口だけがある顔があったら、その時点で気を失える自信がある。そうしたら、逃げられない。
なあ。あんた、聞こえているんだろ?
俺のこと見えてるんだろ?
声は揺らぎが大きい。さっきまで、気味の悪い子供のような高い声だったはずが、今はひび割れた老人のような声になっている。ただ変わらないのはネバついた歓喜の声色だ。
振り返らず、もう一度歩き出そうとした時だった。
ぽん。
と、肩に何かが乗った。
0
お気に入りに追加
29
あなたにおすすめの小説
年上の恋人は優しい上司
木野葉ゆる
BL
小さな賃貸専門の不動産屋さんに勤める俺の恋人は、年上で優しい上司。
仕事のこととか、日常のこととか、デートのこととか、日記代わりに綴るSS連作。
基本は受け視点(一人称)です。
一日一花BL企画 参加作品も含まれています。
表紙は松下リサ様(@risa_m1012)に描いて頂きました!!ありがとうございます!!!!
完結済みにいたしました。
6月13日、同人誌を発売しました。
鬼上司と秘密の同居
なの
BL
恋人に裏切られ弱っていた会社員の小沢 海斗(おざわ かいと)25歳
幼馴染の悠人に助けられ馴染みのBARへ…
そのまま酔い潰れて目が覚めたら鬼上司と呼ばれている浅井 透(あさい とおる)32歳の部屋にいた…
いったい?…どうして?…こうなった?
「お前は俺のそばに居ろ。黙って愛されてればいい」
スパダリ、イケメン鬼上司×裏切られた傷心海斗は幸せを掴むことができるのか…
性描写には※を付けております。
学院のモブ役だったはずの青年溺愛物語
紅林
BL
『桜田門学院高等学校』
日本中の超金持ちの子息子女が通うこの学校は東京都内に位置する野球ドーム五個分の土地が学院としてなる巨大学園だ
しかし生徒数は300人程の少人数の学院だ
そんな学院でモブとして役割を果たすはずだった青年の物語である
有能社長秘書のマンションでテレワークすることになった平社員の俺
高菜あやめ
BL
【マイペース美形社長秘書×平凡新人営業マン】会社の方針で社員全員リモートワークを義務付けられたが、中途入社二年目の営業・野宮は困っていた。なぜならアパートのインターネットは遅すぎて仕事にならないから。なんとか出社を許可して欲しいと上司に直談判したら、社長の呼び出しをくらってしまい、なりゆきで社長秘書・入江のマンションに居候することに。少し冷たそうでマイペースな入江と、ちょっとビビりな野宮はうまく同居できるだろうか? のんびりほのぼのテレワークしてるリーマンのラブコメディです
家事代行サービスにdomの溺愛は必要ありません!
灯璃
BL
家事代行サービスで働く鏑木(かぶらぎ) 慧(けい)はある日、高級マンションの一室に仕事に向かった。だが、住人の男性は入る事すら拒否し、何故かなかなか中に入れてくれない。
何度かの押し問答の後、なんとか慧は中に入れてもらえる事になった。だが、男性からは冷たくオレの部屋には入るなと言われてしまう。
仕方ないと気にせず仕事をし、気が重いまま次の日も訪れると、昨日とは打って変わって男性、秋水(しゅうすい) 龍士郎(りゅうしろう)は慧の料理を褒めた。
思ったより悪い人ではないのかもと慧が思った時、彼がdom、支配する側の人間だという事に気づいてしまう。subである慧は彼と一定の距離を置こうとするがーー。
みたいな、ゆるいdom/subユニバース。ふんわり過ぎてdom/subユニバースにする必要あったのかとか疑問に思ってはいけない。
※完結しました!ありがとうございました!
寮生活のイジメ【社会人版】
ポコたん
BL
田舎から出てきた真面目な社会人が先輩社員に性的イジメされそのあと仕返しをする創作BL小説
【この小説は性行為・同性愛・SM・イジメ的要素が含まれます。理解のある方のみこの先にお進みください。】
全四話
毎週日曜日の正午に一話ずつ公開
【完結・BL】俺をフッた初恋相手が、転勤して上司になったんだが?【先輩×後輩】
彩華
BL
『俺、そんな目でお前のこと見れない』
高校一年の冬。俺の初恋は、見事に玉砕した。
その後、俺は見事にDTのまま。あっという間に25になり。何の変化もないまま、ごくごくありふれたサラリーマンになった俺。
そんな俺の前に、運命の悪戯か。再び初恋相手は現れて────!?
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる