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かの思想家が語るには
市民センター通用口前 3
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なんとはなしに、消えていく、吐息の白を見つめていると、後ろから光が近づいてきた。車のヘッドライトがだと、すぐに気付いて、道の脇によける。と、同時に振り返る。
想像通り、眩しい光が近づいてきて、一瞬、目が眩んだ。とっさに視線を伏せると、視界の端、板塀と、道路のアスファルトの間くらいに、おそらく男性ものの靴が見える。そのまま、視線は上へと上がり、くたびれた皺のある黒のスラックスが見え、さらには黒いスーツのジャケット、光の加減で分かりづらいけれど、多分黒のネクタイが見えた。そこまでは普通なのだが、シャツも黒。なにも、持ってはいない手まで黒。皮の手袋だろうか。
視線が移動する。どくん。と、心臓が跳ねる。鈴のときとは違う。高鳴るのではなく、凍りつくような感覚。見てはいけないと、俺の奥の何かが言っている。
それなのに、勝手に頭は、目はそれに引き寄せられてしまった。
それに顔はなかった。少し光沢がある風船のように張りのある印象の顔? いや、頭には、なにもない。正確には凹凸は多少あるのだか、眉も、瞼も、鼻も、唇もない。ただそれのあるはずの場所が少しだけくぼんだり、出っ張ったりして、顔なのかもしれないと思えるだけだ。
その上。黒い。黒いゴム風船そのものだ。
それなのに。
わかってしまった。
それがこちらを見たこと。視線が交錯したこと。
なぜなら、ぱかり。と、顔の下方に亀裂が走ったからだ。それは、徐々に広がって、三日月の形になっていく。顔は黒いのにその裂け目の中は妙に生々しい赤だった。
笑ってる。
その顔が見えた瞬間、ぞっとするような何かが、背筋を駆け上がって頭の奥の危険を察知する部分に突き刺さったような気がした。
繰り返し言うが、俺にしか見えない人(?)たちに対する俺の感覚は全く当てにならない。怪談を読み漁って、似たような話があっても、同じなのかは判別がつかなかったし、結局のところ、怪談話が言っている回答なんて、物語として面白い憶測とか、後付けの言い訳みたいなものだと思い知るだけだった。
だから、なるべく、そんなものとは関わり合いを持たないように過ごしてきた。簡単に言えば、危険だと思ったらすぐに逃げた。逃げられないこともあったけれど、そういう時には大抵それは危険なものではなくて、リマ男のようによく見れば普通の人と変わりがない人ではない何かだった。
けれど、怖い人に見えてもいい人だっている。人にだっていい人と悪い人がいるように、あれらにもいい人と悪い人は存在(?)していると思う。
だから、もし、今日あったこれが、“たまたま”危険なもので、、いつもは逃げ切れていたのに“たまたま”逃げきれずに追いつかれてしまったら。
そこまで、文章にすると長くなるけれど、0.5秒ほどで考える。
それから、すぐに視線を逸らして、元向いていた方向を向いて早足で歩き出した。走り出さなかったのは、それを刺激したくなかったからだ。
とにかく、遠ざからないといけない。そう思った。その感覚が、間違いならそれでもいい。怖がりだな。と、笑い話になるだけだ。
できる限り、足音を殺して(これに意味があるのかは分からないが)できる限り、早足で歩く。
車に乗れば、逃げられる。と、根拠のない思いに縋って歩く。
けれど、聞こえてきた足音。後ろからだ。ついてきてしまった。状況はあまり芳しくない。振り返って確認したいけれど、意識しているのを悟られたくないから、できない。仕方なくさらに足を速めるけれど、後ろからついてくる足音も同じだけ早くなるだけだった。
随分昔に、似たような経験をしたことがある。こうやって、誰かに追い掛け回された。あれはいつだったか。確か、中学生の頃だ。こんなふうに得体のしれないものに追いかけられて、家を知られてはいけないと何故か脅迫観念のように感じて、町中を逃げ回った。
あのときは結局どうしたんだっけ。
参考になるかどうかなんてわからない。けれど、今俺が無事でいられるってことはあのときは逃げられたはずだ。何かの足しにはなるかもしれない。
そう思うけれど、あの時どうなったのか、記憶に靄がかかったようで思い出せない。
…えて…だ…。な…き…え…だろ。お…み…る…。
ふと、何かが聞こえてきて、俺はびくり。と、肩を震わせた。それが、囁くような声だと気付くまでに数秒。けれど、歩みを止めることはできなくて、何を言っているかまでは聞き取れない。
聞き取れないくせに、まるで、それは、俺に対しての呪いの言葉のように感じられた。聞きとってはいけないような気がした。
な…き…えてん…ろ?
耳を塞いでしまいたい。けれど、それも出来なくて、また、足を速める。その瞬間、側溝の鉄の蓋に足をとられて転びそうになる。
「うあっ」
何とか道路わきのブロック塀に手をついて転ぶのは免れたけれど、思わず足を止めてしまった。途端にすごい速さで後ろの足音が迫ってくる。
ヤバい。と思ったときにはもう、足音はすぐ後ろまで来ていた。
うふふ。みいつけた。
真後ろから声がする。
ネバついた粘度の高い液体が耳に流し込まれたような気持ちの悪い声だ。薄く笑っているような響きがしている。まるで子供のような口調が気味の悪さをさらに増している。
けれど、やはり、後ろを振り返って見ることはできない。真後ろにあのひび割れた口だけがある顔があったら、その時点で気を失える自信がある。そうしたら、逃げられない。
なあ。あんた、聞こえているんだろ?
俺のこと見えてるんだろ?
声は揺らぎが大きい。さっきまで、気味の悪い子供のような高い声だったはずが、今はひび割れた老人のような声になっている。ただ変わらないのはネバついた歓喜の声色だ。
振り返らず、もう一度歩き出そうとした時だった。
ぽん。
と、肩に何かが乗った。
想像通り、眩しい光が近づいてきて、一瞬、目が眩んだ。とっさに視線を伏せると、視界の端、板塀と、道路のアスファルトの間くらいに、おそらく男性ものの靴が見える。そのまま、視線は上へと上がり、くたびれた皺のある黒のスラックスが見え、さらには黒いスーツのジャケット、光の加減で分かりづらいけれど、多分黒のネクタイが見えた。そこまでは普通なのだが、シャツも黒。なにも、持ってはいない手まで黒。皮の手袋だろうか。
視線が移動する。どくん。と、心臓が跳ねる。鈴のときとは違う。高鳴るのではなく、凍りつくような感覚。見てはいけないと、俺の奥の何かが言っている。
それなのに、勝手に頭は、目はそれに引き寄せられてしまった。
それに顔はなかった。少し光沢がある風船のように張りのある印象の顔? いや、頭には、なにもない。正確には凹凸は多少あるのだか、眉も、瞼も、鼻も、唇もない。ただそれのあるはずの場所が少しだけくぼんだり、出っ張ったりして、顔なのかもしれないと思えるだけだ。
その上。黒い。黒いゴム風船そのものだ。
それなのに。
わかってしまった。
それがこちらを見たこと。視線が交錯したこと。
なぜなら、ぱかり。と、顔の下方に亀裂が走ったからだ。それは、徐々に広がって、三日月の形になっていく。顔は黒いのにその裂け目の中は妙に生々しい赤だった。
笑ってる。
その顔が見えた瞬間、ぞっとするような何かが、背筋を駆け上がって頭の奥の危険を察知する部分に突き刺さったような気がした。
繰り返し言うが、俺にしか見えない人(?)たちに対する俺の感覚は全く当てにならない。怪談を読み漁って、似たような話があっても、同じなのかは判別がつかなかったし、結局のところ、怪談話が言っている回答なんて、物語として面白い憶測とか、後付けの言い訳みたいなものだと思い知るだけだった。
だから、なるべく、そんなものとは関わり合いを持たないように過ごしてきた。簡単に言えば、危険だと思ったらすぐに逃げた。逃げられないこともあったけれど、そういう時には大抵それは危険なものではなくて、リマ男のようによく見れば普通の人と変わりがない人ではない何かだった。
けれど、怖い人に見えてもいい人だっている。人にだっていい人と悪い人がいるように、あれらにもいい人と悪い人は存在(?)していると思う。
だから、もし、今日あったこれが、“たまたま”危険なもので、、いつもは逃げ切れていたのに“たまたま”逃げきれずに追いつかれてしまったら。
そこまで、文章にすると長くなるけれど、0.5秒ほどで考える。
それから、すぐに視線を逸らして、元向いていた方向を向いて早足で歩き出した。走り出さなかったのは、それを刺激したくなかったからだ。
とにかく、遠ざからないといけない。そう思った。その感覚が、間違いならそれでもいい。怖がりだな。と、笑い話になるだけだ。
できる限り、足音を殺して(これに意味があるのかは分からないが)できる限り、早足で歩く。
車に乗れば、逃げられる。と、根拠のない思いに縋って歩く。
けれど、聞こえてきた足音。後ろからだ。ついてきてしまった。状況はあまり芳しくない。振り返って確認したいけれど、意識しているのを悟られたくないから、できない。仕方なくさらに足を速めるけれど、後ろからついてくる足音も同じだけ早くなるだけだった。
随分昔に、似たような経験をしたことがある。こうやって、誰かに追い掛け回された。あれはいつだったか。確か、中学生の頃だ。こんなふうに得体のしれないものに追いかけられて、家を知られてはいけないと何故か脅迫観念のように感じて、町中を逃げ回った。
あのときは結局どうしたんだっけ。
参考になるかどうかなんてわからない。けれど、今俺が無事でいられるってことはあのときは逃げられたはずだ。何かの足しにはなるかもしれない。
そう思うけれど、あの時どうなったのか、記憶に靄がかかったようで思い出せない。
…えて…だ…。な…き…え…だろ。お…み…る…。
ふと、何かが聞こえてきて、俺はびくり。と、肩を震わせた。それが、囁くような声だと気付くまでに数秒。けれど、歩みを止めることはできなくて、何を言っているかまでは聞き取れない。
聞き取れないくせに、まるで、それは、俺に対しての呪いの言葉のように感じられた。聞きとってはいけないような気がした。
な…き…えてん…ろ?
耳を塞いでしまいたい。けれど、それも出来なくて、また、足を速める。その瞬間、側溝の鉄の蓋に足をとられて転びそうになる。
「うあっ」
何とか道路わきのブロック塀に手をついて転ぶのは免れたけれど、思わず足を止めてしまった。途端にすごい速さで後ろの足音が迫ってくる。
ヤバい。と思ったときにはもう、足音はすぐ後ろまで来ていた。
うふふ。みいつけた。
真後ろから声がする。
ネバついた粘度の高い液体が耳に流し込まれたような気持ちの悪い声だ。薄く笑っているような響きがしている。まるで子供のような口調が気味の悪さをさらに増している。
けれど、やはり、後ろを振り返って見ることはできない。真後ろにあのひび割れた口だけがある顔があったら、その時点で気を失える自信がある。そうしたら、逃げられない。
なあ。あんた、聞こえているんだろ?
俺のこと見えてるんだろ?
声は揺らぎが大きい。さっきまで、気味の悪い子供のような高い声だったはずが、今はひび割れた老人のような声になっている。ただ変わらないのはネバついた歓喜の声色だ。
振り返らず、もう一度歩き出そうとした時だった。
ぽん。
と、肩に何かが乗った。
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