真鍮とアイオライト 1

司書Y

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かの思想家が語るには

市民センター通用口前 2

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 帰りの準備を済ませて(といっても、ダウンのジャンパーと交代で着ているダッフルコートを羽織ってマフラーとツバ付きのニット帽を装備するだけ)裏の職員通路を出るときには一人きりだった。といっても、それはいつものことだ。職場は既婚女性が主で、仕事終わりに飲みに行ったりすることも殆どない。勤務時間もバラツキがあって遅番シフトは人数が少ないから、通用口を通るときには大抵警備員さん以外と会うことはない。しかも、今日は警備員さんは巡回中で、通用口には誰もいなかった。
 少し前までは、その時間でも家まで片道7キロ、標高差150mを自転車で通っていた。二日酔いの頭痛を引きずった状態で電動アシスト付とはいえ、自転車で帰るのはきつかっただろう。
 けれど、今は歩いてほんの数分の場所にようやく確保できた駐車場まで行けば、ボロとはいえ、愛車が待っていてくれる。

 ガラスの押し扉を開けると、突き刺すような冷気が顔に当たって、俺はマフラーを顎のあたりまで引き上げる。ニットの手袋の網目をすり抜けて寒さが滲んできた。
 見上げると今日は雲もない。まだまだ寒くなりそうだと思う。早く帰って、来る前に作り置きしておいたカレーを食べて、長風呂したい。
 そんなことを考えながら、俺は車を置いてある月極の駐車場に向かって歩き出した。

 一人で歩いていると、いろいろなことが頭に浮かんで消えていく。
 もうすぐ、父の命日だということ。柔軟剤が終わりかけていたこと。来月の図書館の特集コーナーの本のこと。同級会で聞かされた同級生同士の結婚話のこと。昨日見た黒い人影のこと。
 それから、鈴のこと。

 鈴のことを考え始めると、そればかりなってしまう。
 鈴が、俺のことをどう思っているのか、そればかりが気にかかる。
 兄ちゃんは、俺に辛い思いをしてほしくないと言ったけれど、もし、もしも。万が一にも、鈴が俺のことを好きになってくれるなんて奇跡があるのなら、辛い思いをするのは構わない。きっと、鈴が好きだと言ってくれたら何でも耐えられるのに。なんて、まるで昭和の少女漫画の主人公みたいなことを考えてから、ありえないこと考えて悲劇のヒロイン気取っている自分があまりに恥ずかしくて、ため息が漏れた。
 夢の中で、散々言われたことを思い出す。
 鈴が俺を好きなるなんてありえない。もちろん、恋愛的な意味で。
 友人としてなら、好かれていると自覚してはいる。
 もしかしたら、兄のようにくらいには思っていてくれるかもしれない。その感情だけでも、大切にしなければいけない宝物のようなものだ。鈴みたいな“もっている”人間と俺とは違う人種なんだから。

 そう何度も自分に言い聞かせてきた。けれど、二日酔いと同じで、鈴と会うこと自体できなくなってしまったら、寂しい。会えばどんなに自分に言い聞かせておいても、浮かれてしまう。距離を保たないと、なんて、口先だけで、すぐに鈴の優しさに夢中になってしまう。

 重症だ。

 俺は思う。まだ、歯止めが効くうちに離れたほうがいいのだろうか。

 もう、遅いかも。だけど。

 濃く、白いため息は、長く残って、それでも、凍てついた空気に溶けた。
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