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かの思想家が語るには
兄ちゃんバカだから 4
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「……何言ってるんだ。菫が俺やばあちゃん以上に、別の人のことを好きになったのなんて初めてだろ?」
兄ちゃんの言葉にまた、俺は固まる。
兄ちゃんは他人の感情に疎い。特に、恋愛感情なんて全く興味がない。一度、兄ちゃんの学校の後輩の女の子がバレンタインにチョコを渡しに来てくれたことがあった。けれど、『よく知らんやつからもらったものは食えん』とか言って、返してしまったほどの朴念仁だ。
それなのに。俺以上に、俺の気持ちを知っているなんて。
確かに、今まで付き合った誰も、鈴みたいに思ったことはない。別れようと言われても、『うん』と、すぐに納得した。でも、鈴には絶対に嫌われたくない。鈴に会えなくなったら、と、考えるのが怖い。
「菫。兄ちゃんはな。お前のことが心配なんだ。そんなふうに、相手のことが全部みたいな顔して。
兄ちゃんだって、分かってる。LGBTQの人たちがどんな思いをしているか。ただ人を好きなだけで、生きたいように生きているだけで後ろ指さされるなら、せめて家族くらい理解してやりたい。
けどな。相手や相手の家族がそう思ってくれるかわからない。それでだめになるには、お前は本気過ぎる。
兄ちゃんはもう、あのときみたいに、お前が誰かにボロボロにされるのは見たくない」
俺が思っている以上に、兄ちゃんが俺のことを考えてくれているのが分かって、俺の気持ちを全部否定しようとしているわけでもないことも分かって、切なくて、辛かったけれど、心強かった。傷ついても、みっともなくても、きっと、兄ちゃんはいなくなったりしない。
「大丈夫。わかってるよ。ただ、好きなだけ。それ以上になろうなんて思ってない。大事な友達。兄ちゃんが心配するようなことはないから。俺だって嫌われたくないから、ちゃんと、距離は測れる。今日はほら。酔ってたから。大丈夫だって。大丈夫」
根拠なんて何にもない。けれど、兄ちゃんに言いながら自分に言い聞かせる。兄ちゃんは、納得したという顔ではなかった。俺の気持ちも、全部分かっているだろう。
「ほら、いつまでも止まってたら、迷惑だよ」
さっきクラクションをならした車の後に後続車は来ていない。けれど、俺が促すと、兄ちゃんは車を発進させた。
そのとき、ふと、視界の端に何かが映る。歩車分離の信号機の赤く灯った歩行者用信号機の下、何故かそこだけが、少し薄暗いと感じる場所に。多分あれは人影だ。黒い人影。
それが、どこかで見たことがある人のような気がして、視線をそちらに向ける。しかし、そのときにはもう、何も見えなくなっていた。他の人はどうか知らないけれど、そういうことは俺にはたまにあることだ。いつもなら、気にも留めない。けれど、今日は、何か気になって、車が動いて、その場所を通り過ぎる間、じっと見つめる。それでも、何かが見えることも、不吉な何かが起こることもなかった。
ぴんぽん。
代わりに、聞きなれた音がする。何かを話そうと思ったけれど、言葉が見つからなくて、なんとなく居たたまれなかったから、少し、救われた気がして俺はスマホに視線を落とす。そうすると、画面にはLINEの通知アイコンが表示されていた。開くとそれは、戌井からだった。
なんも言わんで消えてわりい。
気持ち悪くなって、店戻ってトイレ行ってた。
探してもいなかったのはそういうわけだったのかと納得する。ふと、頭の中を何かノイズのようなものが通り過ぎた気がしたけれど、きっと、酔っているからだと、頭を振った。
こっちこそ、探したけど見つからんくて、先に帰った。
ごめん。
返信する。車の中で、しかも酔っぱらった頭で、ずっと、スマホの画面を見ていると、眩暈のように視界が歪んだ。視界の端、車の窓の向こうから誰かが見ている気がする。もちろん、顔をあげても誰もいない。
視線を戻すと、LINEにはすぐに既読がついた。
しゅぽ。と、音がして、返信が来る。
いいよ。15分くらい、トイレ籠ってたし。
今度、また、飲み行こうぜ。
図書館も行くからな~。
OK。の、スタンプを返して、スマホの画面を落とす。なんだか、頭がぼーっとしていた。通り過ぎる窓の外の電柱の脇、塀の隙間、生け垣の陰、ガードレールの下から、ざわざわと何かが囁き合っているような想像が、いや、妄想が浮かんでは消える。やっぱり、飲み過ぎだったんだろう。
兄ちゃんは何も言わない。言いたいことを言ったから、あとは俺に考えさせるつもりなんだと思う。
けれど、今は、何も考えられない。
酔っぱらっているのを理由にして、深くは考えたくなかった。もう少し、先延ばしにしたかった。せめて、約束した映画に行くまでは、夢の中にいたかったのだと思う。
酷く眠い。
シートに深く身体を埋めて、俺は目を閉じた。
兄ちゃんの言葉にまた、俺は固まる。
兄ちゃんは他人の感情に疎い。特に、恋愛感情なんて全く興味がない。一度、兄ちゃんの学校の後輩の女の子がバレンタインにチョコを渡しに来てくれたことがあった。けれど、『よく知らんやつからもらったものは食えん』とか言って、返してしまったほどの朴念仁だ。
それなのに。俺以上に、俺の気持ちを知っているなんて。
確かに、今まで付き合った誰も、鈴みたいに思ったことはない。別れようと言われても、『うん』と、すぐに納得した。でも、鈴には絶対に嫌われたくない。鈴に会えなくなったら、と、考えるのが怖い。
「菫。兄ちゃんはな。お前のことが心配なんだ。そんなふうに、相手のことが全部みたいな顔して。
兄ちゃんだって、分かってる。LGBTQの人たちがどんな思いをしているか。ただ人を好きなだけで、生きたいように生きているだけで後ろ指さされるなら、せめて家族くらい理解してやりたい。
けどな。相手や相手の家族がそう思ってくれるかわからない。それでだめになるには、お前は本気過ぎる。
兄ちゃんはもう、あのときみたいに、お前が誰かにボロボロにされるのは見たくない」
俺が思っている以上に、兄ちゃんが俺のことを考えてくれているのが分かって、俺の気持ちを全部否定しようとしているわけでもないことも分かって、切なくて、辛かったけれど、心強かった。傷ついても、みっともなくても、きっと、兄ちゃんはいなくなったりしない。
「大丈夫。わかってるよ。ただ、好きなだけ。それ以上になろうなんて思ってない。大事な友達。兄ちゃんが心配するようなことはないから。俺だって嫌われたくないから、ちゃんと、距離は測れる。今日はほら。酔ってたから。大丈夫だって。大丈夫」
根拠なんて何にもない。けれど、兄ちゃんに言いながら自分に言い聞かせる。兄ちゃんは、納得したという顔ではなかった。俺の気持ちも、全部分かっているだろう。
「ほら、いつまでも止まってたら、迷惑だよ」
さっきクラクションをならした車の後に後続車は来ていない。けれど、俺が促すと、兄ちゃんは車を発進させた。
そのとき、ふと、視界の端に何かが映る。歩車分離の信号機の赤く灯った歩行者用信号機の下、何故かそこだけが、少し薄暗いと感じる場所に。多分あれは人影だ。黒い人影。
それが、どこかで見たことがある人のような気がして、視線をそちらに向ける。しかし、そのときにはもう、何も見えなくなっていた。他の人はどうか知らないけれど、そういうことは俺にはたまにあることだ。いつもなら、気にも留めない。けれど、今日は、何か気になって、車が動いて、その場所を通り過ぎる間、じっと見つめる。それでも、何かが見えることも、不吉な何かが起こることもなかった。
ぴんぽん。
代わりに、聞きなれた音がする。何かを話そうと思ったけれど、言葉が見つからなくて、なんとなく居たたまれなかったから、少し、救われた気がして俺はスマホに視線を落とす。そうすると、画面にはLINEの通知アイコンが表示されていた。開くとそれは、戌井からだった。
なんも言わんで消えてわりい。
気持ち悪くなって、店戻ってトイレ行ってた。
探してもいなかったのはそういうわけだったのかと納得する。ふと、頭の中を何かノイズのようなものが通り過ぎた気がしたけれど、きっと、酔っているからだと、頭を振った。
こっちこそ、探したけど見つからんくて、先に帰った。
ごめん。
返信する。車の中で、しかも酔っぱらった頭で、ずっと、スマホの画面を見ていると、眩暈のように視界が歪んだ。視界の端、車の窓の向こうから誰かが見ている気がする。もちろん、顔をあげても誰もいない。
視線を戻すと、LINEにはすぐに既読がついた。
しゅぽ。と、音がして、返信が来る。
いいよ。15分くらい、トイレ籠ってたし。
今度、また、飲み行こうぜ。
図書館も行くからな~。
OK。の、スタンプを返して、スマホの画面を落とす。なんだか、頭がぼーっとしていた。通り過ぎる窓の外の電柱の脇、塀の隙間、生け垣の陰、ガードレールの下から、ざわざわと何かが囁き合っているような想像が、いや、妄想が浮かんでは消える。やっぱり、飲み過ぎだったんだろう。
兄ちゃんは何も言わない。言いたいことを言ったから、あとは俺に考えさせるつもりなんだと思う。
けれど、今は、何も考えられない。
酔っぱらっているのを理由にして、深くは考えたくなかった。もう少し、先延ばしにしたかった。せめて、約束した映画に行くまでは、夢の中にいたかったのだと思う。
酷く眠い。
シートに深く身体を埋めて、俺は目を閉じた。
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