真鍮とアイオライト 1

司書Y

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番外編 番犬と十七夜

タイムリミットは 1

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 無駄にデカい自宅の母屋の廊下で、スマートフォンを見つめて、貴志狼は大きくため息をついた。見える範囲に何人か黒いスーツの顔面凶器が立っている。貴志狼のため息には気付いているが、気づかないふりをしていると言ったところだろう。ちらり。と、視線を向けても、何もなかったように視線を戻す。
 祖父の直属の連中は教育が行き届いているから、母屋で喧しく騒ぐような奴はいない。貴志狼が面倒をみている喧しい半グレ上りは、現在皆庭で待機中だ。
 いつもそうだ。というわけでもないのだが、今日は特別な客人が来ることもあって、母屋は料亭のような静けさだった。

 熱でたりしてねえか?
 あいつにいいにくいなら、迎えに行ってやろうか?

 手の中のスマートフォンの画面に浮かぶ文字。
 メッセージを送ってしまってから、一瞬後に後悔して、消去しようとしたけれど、その瞬間に既読がついてしまって、消すに消せなくなった。
 我ながら、往生際が悪すぎる。貴志狼は思う。いくらあの男と葉がいるのが嫌だと言っても、心配するふりをしてこんなメッセージを送るなんて、普通に考えたらありえない。しかも、葉をあの男に預けると決めたばかりなのだ。舌の根も乾かぬうちにこんな文章を送っている自分の女々しさに反吐が出る。

 でも、気にかかって仕方がない。
 すぐにでも、葉のところに行きたい。
 顔が見たい。
 声を聞きたい。
 ダメだと分かっていても、抱きしめたい。

 そんな妄想ばかりが浮かんで消える。
 自分がそばにいられないのに、あの男がそばにいるなんて。と、どす黒い感情が湧き上がる。その手が葉に触れるかと思うと、おかしくなりそうなほどの嫉妬に苛まれる。
 ただ映画に行くと送り出しただけでこの有様だ。あの男と葉の性格上、今日何か間違いがあるとは思えないが、それでも邪魔なメッセージを送ってしまうくらいに、貴志狼は葉のことばかりを考えていた。

『貴志狼』

 背後から声をかけられて、振り返る。そこには、よく知った人物がいた。

『敦さん』

 貴志狼よりは幾分背が低いが、がっしりとした体形のその人物は姉の配偶者だ。つまり、貴志狼にとっては義兄にあたる。面倒見がよく快活で、豪快で、嫌味や皮肉なところが一切ない好人物で貴志狼も本当の兄ように慕っていた。

『よう。最近顔見せねえけど、しけたツラしてんな。さっさと席に戻れ。オヤジがキレるぞ』

 珍しくきっちりとスーツを着込んでいる。今日の会食に呼ばれたからだ。貴志狼が席を立ったまま帰らないから、壱狼に呼んでくるよう仰せつかったらしい。

『苦手なんだよ』

 拗ねたように貴志狼は呟いた。他の連中にこんなことを言ったことはない。信頼している敦にだから言える言葉だった。
 貴志狼は、組の表立った仕事や、顔見せに出ることを避けている。理由はいくつかあるのだが、それを知っているのは、家族や一部の幹部だけだ。だから、貴志狼のことを腰抜け呼ばわりするものも、反対に裏のもっとヤバいことをしているのだと忌避するものもいる。
 その貴志狼にも逆らえない絶対命令で今日は会食に参加しなければいけない羽目になった。簡単に言うと、祖父の命令だからだ。自由にさせてやっているのだから、いうことには従えというのが祖父の言い分だし、この世界で生きていくのに、本気で祖父の意向に反することなんてできるはずがないことくらいは、貴志狼にも分かっている。

『んなこたぁ知ってる』

 ぐしゃぐしゃ。と貴志狼の頭を掻き回して、敦は言った。

『今日くらいは我慢しろ』

 今日くらいは。と、敦は言う。
 けれど、今日だから我慢できないのだ。
 貴志狼は思う。
 葉のことがなければ、会食の間数時間くらいは我慢する。けれど、今日だけはだめだった。
 不安と心配と嫉妬で、料亭から板前を出張させて作らせている料理も味がしない。どころか、喉を通らない。

『お前も阿呆だな。……う…ゃんも…ろ…するわ』

 ぼそり。と、敦が言った言葉が聞き取れなくて、貴志狼はその顔を見た。

『は? なに?』

 その貴志狼の表情をまじまじと見つめて、敦が大きくため息を吐く。それから、いきなり、ごん。と、頭を拳骨で殴られた。

『いてぇ。何すんだよ?』

 敦にしては本気ではないにしろ、痛みに貴志狼が頭を抱える。

『おら。行くぞ』

 しかし、敦は理由も言わないまま、貴志狼の腕を掴んだ。
 その瞬間。ヴヴ。と、スマートフォンに着信を知らせるバイブ音が鳴った。

『あ。ちょ。待…』

 けれど、聞く耳を持たない敦に引きずられて、貴志狼は会食の場に連れ戻されたのだった。
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