真鍮とアイオライト 1

司書Y

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取り急ぎ付ける名もなく

取り急ぎ付ける名もなく 8

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『あ。そだ』

 鈴と並んで、歩き出そうとして、俺はふと立ち止まった。
 それから、くるり。と、道を戻る。戻りながら、俺は、エコバックの中を探った。

『これもやる』

 お目当てのものを見つけて、脛を抱えたまま蹲っているクロバにそれを渡す。

『池井さん?』

 肩越しに鈴が覗き込んできた。
 それから、俺の差し出したものを見て、ぷ。と、吹き出す。

『これやるから、もう、通行人に絡むなよ?』

 脛を擦っていた手をとって、それを渡すと、涙目のまま、クロバは素直にそれを受け取った。

『…いなり…すし』

 また、片言になっている。けれど、よっぽどいなり寿司が好きなのか、ちょっと隠しきれない微妙な泣き笑いみたいな顔だ。
 これが食べたくて、夜中に買い物に出たけれど、そのせいで面倒ごとに巻き込まれて、最早、いなり寿司のことはどうでもよくなっていた。これで、もう、絡まないでくれるなら、それでいいと思う。

『…お前、池井さんに借りができたな』

 馬鹿にするような口調になって、鈴が言うから、め。と。睨みつけて、制すると、まだ涙目のまま、クロバがすく。と、立ち上がった。

『いいだろう。借りておいてやる。困ったことがあったら、助けてやろうから、呼ぶがいい』

 痛みのせいなのかぷるぷると震えながら、それでも、精一杯のキメ顔でクロバが言う。それから、また、俺の腕をとって、ぐい。と、引き寄せてから、耳元に口を寄せた。

『黒羽乃介征伸だ』

 小さく囁く。それから、ふ。と、その唇が耳元に触れた。

『わあっ』

 わざとなのか、偶然なのかは分からない。けれど、確かに触れた。
 それに気づいたのか、今度はぐい。と、鈴に引き寄せられて、背中に回される。

『おま…』

 今度は、簡単に俺の手を離して、鈴に渡したくせに、にやり。という形容詞がぴったりくる笑顔を鈴に向けて、偉そうにクロバはふんぞり返った。

『俺の名だ。覚えておけ』

 大事そうに、赤いカップうどんといなり寿司を抱えて、クロバが俺たちに背を向ける。

『それじゃ、またな』

 ひらひら、振られる片手に、俺は疲れ切った顔をしていたと思う。できれば、鈴の時とは違って、”また”は、あってほしくない。

『二度と、池井さんの視界に映るな!』

 ごしごしと、クロバの唇が触れた場所を服の袖で拭きながら、鈴が渋い顔で怒鳴る。
 ああ。イケメンも怒鳴ったりするんだ。と、わけのわからない感想を心の中で呟きつつ、俺の深夜のお買い物は幕を閉じたのであった。
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