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取り急ぎ付ける名もなく
取り急ぎ付ける名もなく 6
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突然前に飛び出した俺を、鈴は驚いた顔で見ていた。
『池井さん?』
もう一度、前に出ようとする鈴を制して、エコバックを探る。そして、その中から、目当てのものを見つけ出して、つかつかと、クロバに歩み寄った。
怖くないと言えば嘘になるけれど、俺自身のことなんだから、何かが起こるとしたら、俺に起こるのが正解だと思う。だから、鈴は止めようと手を伸ばしたけれど、俺はそれより早く動いた。
『これ。やる。だから、帰れ!』
俺が差し出したものに、クロバの顔が、明らかに、は? という顔になった。
『腹減ってるって言ったのお前だろ? これやるから、帰って食え!』
またしても、的外れなことを言っているのは分かっている。けれど、俺はクロバの手に持っていたそれを押し付けた。
『なんだ? これは』
手の中のものをじっと見えて、クロバが呟く。
『見て分かるだろ。赤いき〇ねだ』
赤いパッケージのカップうどん。いなり寿司と一緒に食べるなら、きつねうどんこそ正義(諸説あります)だ。だから、今夜のエコバックにそれが入っているのは必然だと言える。
もちろん、そんなもので、クロバが引き下がるわけがないとはわかっている。ガキの使いじゃないんだ。けれど、俺にはこんなことしかできない。年下の、出会ったばかりの鈴に守ってもらうだけでいるわけにはいかない。
そう思って、一か八か逃げる時間稼ぎくらいに思っていたんだ。
『あかい…あげ』
けれど、クロバは呟いて、じっと赤いカップうどんを見ていた。
その頭の上と、腰のあたりに一瞬。ほんの一瞬。見えた。
三角の耳と、ふさふさのしっぽ。お揚げと同じ色の。
それはほんの一瞬で、すぐに消えた。見間違いだったのだろうか。目をぱちぱちと、瞬かせても、もう、見えない。
『…んん。まあ、いい』
軽く咳払いしてから、クロバが言う。
『いいのかよっ』
俺は思わずツッコミを入れた。
クロバの声色もさっきまでと明らかに違う。威圧感のようなものはすっかりなくなって、声色も軽くなっている。喜んでる。と、感じた。
『今日はこれくらいにしておいてやろう』
風船がパン。と、割れるみたいに、クロバの後ろの暗闇が弾けて、萎む。後には、何もなかったような、静かな松林が広がっている。
ふと。気付くと、その先に何か赤いものが見え隠れしている。あれは、なんだろうか。
『別にこんなものがほしかったわけではないのだぞ?』
そういいながら、クロバの目はしっかりと手の中のカップを見ている。じゅるり。と、舌なめずりの音まで聞こえた。
もしかして、本当に腹が減っていただけなんだろうか? 俺は思う。腹が減って苛立っていたから、あんなふうに赤の他人に絡んできたのかもしれない。
『安いヤツ』
俺たちの会話を聞いていた鈴が、ボソリ。と、呟く。こちらは何故か、不機嫌そうだ。明らかにばかにしているようなニュアンスが多分に含まれている。
『なんだと?』
一瞬にして、ぶわ。と、音まで聞こえるくらいの勢いで夜が膨張した。鈴の視線も険しくなる。
『シンシが聞いて呆れる』
シンシ?
ってどう言う意味だ?
鈴にはクロバが何者かわかっているようだった。それは多分間違いない。
近所と言うには、俺の家はここから離れているから、この辺の人なら知っているということなのだろうか。確かに目立つ男だ。しかも、腹が減ったからって絡んでくるような、迷惑千万なヤツなのだとしたら、確かに近所では要注意人物として知らない人はいないかもしれない。こんな田舎なら、なおさら知られていてもおかしくない。
けれど、それも意味が違う気がする。
『そんなもん。俺が頼んだわけでもないわ』
一言、何の話なんだ?
と、聞けばいい。
けれど、それができない。
関係ないとは言われたくなかったし、反対にとんでもない真相を聞かされるのも怖かった。
『なら、大人しく山にでも帰れ』
じゃ。と、アスファルトを踏んで、鈴が前へ出る。そして、俺の手を掴んだ。
『巫山戯るなよ? ここは、俺の、遊び場だ。お前らが阿呆ほど増える前からな』
同じように、クロバが俺の腕を掴んだ。爪が皮膚に食い込む。
痛い。
こういうの。なんて言ったっけ。知ってる。昔話であったよな。母親だって自称している二人の女性に子供の腕を引っ張らせるやつ。
と。のんきに考える。考えてから、やっぱり痛くて、俺はクロバの手を振り払おうと腕に力を入れる。けれど、それも出来なくて、バカ力がと、だんだん怒りが湧いてきた。
『痛っ。やめ。離せって、てか。爪切れ』
痛くて顔を顰めても、クロバにはどこ吹く風だ。俺を完全無視して、鈴を睨みつけている。
ああ。こいつが偽物の母親だ。俺のことなんて、何にも考えてない。
『その手を、離せ』
代わりに鈴が反応して、片手で俺を庇いながら、俺の腕を掴んでいるクロバの手首に手をかける。
その瞬間に、りん。と、鈴の音が聞こえた。この場面には似つかわしくない音だ。けれど、涼やかで澄んだ音色だった。
『小僧。お前、きた…』
りん。と、また、鈴の音が聞こえる。
『池井さん?』
もう一度、前に出ようとする鈴を制して、エコバックを探る。そして、その中から、目当てのものを見つけ出して、つかつかと、クロバに歩み寄った。
怖くないと言えば嘘になるけれど、俺自身のことなんだから、何かが起こるとしたら、俺に起こるのが正解だと思う。だから、鈴は止めようと手を伸ばしたけれど、俺はそれより早く動いた。
『これ。やる。だから、帰れ!』
俺が差し出したものに、クロバの顔が、明らかに、は? という顔になった。
『腹減ってるって言ったのお前だろ? これやるから、帰って食え!』
またしても、的外れなことを言っているのは分かっている。けれど、俺はクロバの手に持っていたそれを押し付けた。
『なんだ? これは』
手の中のものをじっと見えて、クロバが呟く。
『見て分かるだろ。赤いき〇ねだ』
赤いパッケージのカップうどん。いなり寿司と一緒に食べるなら、きつねうどんこそ正義(諸説あります)だ。だから、今夜のエコバックにそれが入っているのは必然だと言える。
もちろん、そんなもので、クロバが引き下がるわけがないとはわかっている。ガキの使いじゃないんだ。けれど、俺にはこんなことしかできない。年下の、出会ったばかりの鈴に守ってもらうだけでいるわけにはいかない。
そう思って、一か八か逃げる時間稼ぎくらいに思っていたんだ。
『あかい…あげ』
けれど、クロバは呟いて、じっと赤いカップうどんを見ていた。
その頭の上と、腰のあたりに一瞬。ほんの一瞬。見えた。
三角の耳と、ふさふさのしっぽ。お揚げと同じ色の。
それはほんの一瞬で、すぐに消えた。見間違いだったのだろうか。目をぱちぱちと、瞬かせても、もう、見えない。
『…んん。まあ、いい』
軽く咳払いしてから、クロバが言う。
『いいのかよっ』
俺は思わずツッコミを入れた。
クロバの声色もさっきまでと明らかに違う。威圧感のようなものはすっかりなくなって、声色も軽くなっている。喜んでる。と、感じた。
『今日はこれくらいにしておいてやろう』
風船がパン。と、割れるみたいに、クロバの後ろの暗闇が弾けて、萎む。後には、何もなかったような、静かな松林が広がっている。
ふと。気付くと、その先に何か赤いものが見え隠れしている。あれは、なんだろうか。
『別にこんなものがほしかったわけではないのだぞ?』
そういいながら、クロバの目はしっかりと手の中のカップを見ている。じゅるり。と、舌なめずりの音まで聞こえた。
もしかして、本当に腹が減っていただけなんだろうか? 俺は思う。腹が減って苛立っていたから、あんなふうに赤の他人に絡んできたのかもしれない。
『安いヤツ』
俺たちの会話を聞いていた鈴が、ボソリ。と、呟く。こちらは何故か、不機嫌そうだ。明らかにばかにしているようなニュアンスが多分に含まれている。
『なんだと?』
一瞬にして、ぶわ。と、音まで聞こえるくらいの勢いで夜が膨張した。鈴の視線も険しくなる。
『シンシが聞いて呆れる』
シンシ?
ってどう言う意味だ?
鈴にはクロバが何者かわかっているようだった。それは多分間違いない。
近所と言うには、俺の家はここから離れているから、この辺の人なら知っているということなのだろうか。確かに目立つ男だ。しかも、腹が減ったからって絡んでくるような、迷惑千万なヤツなのだとしたら、確かに近所では要注意人物として知らない人はいないかもしれない。こんな田舎なら、なおさら知られていてもおかしくない。
けれど、それも意味が違う気がする。
『そんなもん。俺が頼んだわけでもないわ』
一言、何の話なんだ?
と、聞けばいい。
けれど、それができない。
関係ないとは言われたくなかったし、反対にとんでもない真相を聞かされるのも怖かった。
『なら、大人しく山にでも帰れ』
じゃ。と、アスファルトを踏んで、鈴が前へ出る。そして、俺の手を掴んだ。
『巫山戯るなよ? ここは、俺の、遊び場だ。お前らが阿呆ほど増える前からな』
同じように、クロバが俺の腕を掴んだ。爪が皮膚に食い込む。
痛い。
こういうの。なんて言ったっけ。知ってる。昔話であったよな。母親だって自称している二人の女性に子供の腕を引っ張らせるやつ。
と。のんきに考える。考えてから、やっぱり痛くて、俺はクロバの手を振り払おうと腕に力を入れる。けれど、それも出来なくて、バカ力がと、だんだん怒りが湧いてきた。
『痛っ。やめ。離せって、てか。爪切れ』
痛くて顔を顰めても、クロバにはどこ吹く風だ。俺を完全無視して、鈴を睨みつけている。
ああ。こいつが偽物の母親だ。俺のことなんて、何にも考えてない。
『その手を、離せ』
代わりに鈴が反応して、片手で俺を庇いながら、俺の腕を掴んでいるクロバの手首に手をかける。
その瞬間に、りん。と、鈴の音が聞こえた。この場面には似つかわしくない音だ。けれど、涼やかで澄んだ音色だった。
『小僧。お前、きた…』
りん。と、また、鈴の音が聞こえる。
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