真鍮とアイオライト 1

司書Y

文字の大きさ
上 下
29 / 392
取り急ぎ付ける名もなく

取り急ぎ付ける名もなく 5

しおりを挟む
『ん?』

 思ってから、ふと思う。
 何かを忘れているような気がする。

『おい。貴様』

 クロバは林の中まで放り出されたようだった。結構ガタイいい成人男性をあそこまで放り出すなんて。頭に松葉をいっぱいつけて、ぶるぶると頭を振るクロバと、鈴を見比べる。決して太くは見えない鈴の腕が別のもののよう見えた。

『俺を投げ飛ばすとはいい度胸だな。小僧』

 クロバが、こちらを睨んでいる。投げつけられる視線が刃物のようだ。
 松林の暗闇を背負って、その輪郭がやけに暗い。鋭いツリ目と、その目じりの赤いラインだけが、やけに鮮明に見える。

『俺が誰なのかは…貴様の方は分かっているようだが。怖いもの知らずにもほどがある』

 びり。
 と、火花が散った。いや、実際には別に火がついたわけではない。ただ、俺の目にはクロバの怒りが視覚化したみたいに、赤い火花が散って見えた。
 これは、俗にいう、普通。ではない。普通の人間の威圧感ではない。睨まれただけで、関節の間に鉛を流し込まれたみたいに身体が動かなくなる。いわゆる、金縛りにあっているようだ。

『俺が気に入ったと言っておる。寄越せ』

 俺の方に伸ばされた指先に長い爪。細い目に赤いライン。開かれた口元に鋭い犬歯。獣の匂い。

 ああ。こいつは。
 意識が混濁しそうになったそのとき。

『この人に。さわるな』

 ちりん。
 と、音がした。

 鈴の音だ。
 真鍮の、澄んだ、鈴の音。

 それだけで、ぱ。と、周りが明るくなったように思える。
 鈴は、俺を自分の背の後ろに押しやって、クロバとの間に立った。鈴の肩越しに月が見える。明るい月。その光が、松林の中まで差し込む。
 さっきまでこんなに明るかっただろうか。と、思うけれど、思い出せなかった。

『お前、風情が、思い上がるな』

 ゆっくりと言葉を区切って、鈴が続ける。その言葉が、形に、いや、圧力のようなものになって、暗闇を押し戻している。
 その言葉だけで、クロバは少しだけひるんだようだった。伸ばした手が止まる。

『小僧』

 ぎぎ。
 と、空気に金属の粒子が混ざるような鋭角な緊張感が走った。
 けれど、鈴が俺をさらに後ろに隠すようにするから、それ以上クロバの姿が見えなくなる。見えないと余計にクロバの存在感のようなものが増したような気がして、俺はぎゅ。と、鈴の服の背を掴んだ。

『池井さん』

 そんな俺に、振り返りもしないで、クロバの方を向いたまま鈴が言う。声には緊張感はあるけれど、いつも通り低くて、優しくて、よく響く。

『え?』

 突然自分が呼ばれて、俺は、振り向きもしないその背中を見つめる。

『俺のことは、北島じゃなくて、鈴って呼んでください。苗字好きじゃないんで』

 場違いな言葉に聞こえた。今言うことなのか? と、疑問に思う。けれど、鈴の声は真剣だった。

『鈴…君?』

 だから、そう呼ぶと、鈴は少しだけ振り返って、笑った。
 なんだか、怖い。
 と、感じた。
 鈴の笑顔が。ではなくて、こんな状況で、そんなふうに笑う、鈴が何をしようとしているのか、考えているのか、それをしてしまったときどうなってしまうのか、それが、怖い。

 もしかしたら、それは本当に致命的かもしれない。折角、出会えたのに、話ができたのに、名前を知ることができたのに、俺の見ている世界を共有できるかもしれない人を初めて見つけたのに。
 少しだけ心に触れることができたような気がしたのに。
 なくなってしまう。

 それが、たまらなく、こわい。

『…っ』

 だから、俺は、今度はぐい。と、俺の方から、鈴の腕を引っ張って、後ろに追いやった。
しおりを挟む
感想 6

あなたにおすすめの小説

鬼上司と秘密の同居

なの
BL
恋人に裏切られ弱っていた会社員の小沢 海斗(おざわ かいと)25歳 幼馴染の悠人に助けられ馴染みのBARへ… そのまま酔い潰れて目が覚めたら鬼上司と呼ばれている浅井 透(あさい とおる)32歳の部屋にいた… いったい?…どうして?…こうなった? 「お前は俺のそばに居ろ。黙って愛されてればいい」 スパダリ、イケメン鬼上司×裏切られた傷心海斗は幸せを掴むことができるのか… 性描写には※を付けております。

放課後教室

Kokonuca.
BL
ある放課後の教室で彼に起こった凶事からすべて始まる

見ぃつけた。

茉莉花 香乃
BL
小学生の時、意地悪されて転校した。高校一年生の途中までは穏やかな生活だったのに、全寮制の学校に転入しなければならなくなった。そこで、出会ったのは… 他サイトにも公開しています

4人の兄に溺愛されてます

まつも☆きらら
BL
中学1年生の梨夢は5人兄弟の末っ子。4人の兄にとにかく溺愛されている。兄たちが大好きな梨夢だが、心配性な兄たちは時に過保護になりすぎて。

ハイスペックED~元凶の貧乏大学生と同居生活~

みきち@書籍発売中!
BL
イケメン投資家(24)が、学生時代に初恋拗らせてEDになり、元凶の貧乏大学生(19)と同居する話。 成り行きで添い寝してたらとんでも関係になっちゃう、コメディ風+お料理要素あり♪ イケメン投資家(高見)×貧乏大学生(主人公:凛)

【完結・BL】俺をフッた初恋相手が、転勤して上司になったんだが?【先輩×後輩】

彩華
BL
『俺、そんな目でお前のこと見れない』 高校一年の冬。俺の初恋は、見事に玉砕した。 その後、俺は見事にDTのまま。あっという間に25になり。何の変化もないまま、ごくごくありふれたサラリーマンになった俺。 そんな俺の前に、運命の悪戯か。再び初恋相手は現れて────!?

【完結】ぎゅって抱っこして

かずえ
BL
幼児教育学科の短大に通う村瀬一太。訳あって普通の高校に通えなかったため、働いて貯めたお金で二年間だけでもと大学に入学してみたが、学費と生活費を稼ぎつつ学校に通うのは、考えていたよりも厳しい……。 でも、頼れる者は誰もいない。 自分で頑張らなきゃ。 本気なら何でもできるはず。 でも、ある日、金持ちの坊っちゃんと心の中で呼んでいた松島晃に苦手なピアノの課題で助けてもらってから、どうにも自分の心がコントロールできなくなって……。

幸せの温度

本郷アキ
BL
※ラブ度高めです。直接的な表現もありますので、苦手な方はご注意ください。 まだ産まれたばかりの葉月を置いて、両親は天国の門を叩いた。 俺がしっかりしなきゃ──そう思っていた兄、睦月《むつき》17歳の前に表れたのは、両親の親友だという浅黄陽《あさぎよう》33歳。 陽は本当の家族のように接してくれるけれど、血の繋がりのない偽物の家族は終わりにしなければならない、だってずっと家族じゃいられないでしょ? そんなのただの言い訳。 俺にあんまり触らないで。 俺の気持ちに気付かないで。 ……陽の手で触れられるとおかしくなってしまうから。 俺のこと好きでもないのに、どうしてあんなことをしたの? 少しずつ育っていった恋心は、告白前に失恋決定。 家事に育児に翻弄されながら、少しずつ家族の形が出来上がっていく。 そんな中、睦月をストーキングする男が現れて──!?

処理中です...