真鍮とアイオライト 1

司書Y

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取り急ぎ付ける名もなく

取り急ぎ付ける名もなく 4

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『お。わっ』

 代わりに出たのは酷く間の抜けた声だった。またしても、さっきクロバにされたのと同じように、俺自身にはわけもわからないまま、状況は変わっていた。クロバの腕はほぼ無理矢理引き離されて、代わりに俺を引き寄せた腕がまるで隠すみたいにクロバと俺の間に入った。

『こんばんは』

 随分と乱暴なやり方だ。けれど、裏腹に声は低く優しい。
 もちろん、その声には聞き覚えがあった。

『北島君?』

 見上げると、鈴は軽く頭をかしげて、笑う。綺麗な笑顔だった。
 その笑顔に何だか不思議なくらいの安心感が湧いてくる。何故か、俺は子供の頃、迷子になった自分を兄が見つけてくれたときのことを思い出していた。年下相手にこんなことを思うなんて、情けない。情けないのだけれど、こんな状況だから仕方ないと思う。
 なんだかわからないまま、変質者に襲われたら、大抵の人はそうだなるだろう?

『買い物ですか?』

 地面に落ちたエコバックを拾って、その埃を払って、差し出しながら、鈴は言った。相変わらずのイケメンっぷりが目に痛いほどだと思う。100円ショップで買った普通のエコバックを拾って渡す。それだけの仕草で、こんなにも絵になるものだろうか。イケメンってすげえと、あほなことで感心してしまったのは、安堵で興奮状態だったからだろう。

『ありがと。なんか、きゅうに食いたくなって。てか、よく会うね。夜』

 お礼を言って受け取ると、鈴は少し困り顔になった。

『家。近いんす。あ。こないだ。利用者登録で見ましたよね。池井さんも、近いんすか?』

 普段、あまり口数が多い感じではないのに、時々饒舌になるのは、知られたくないことがあるのかと、少し戸惑う。
 よく会うね。と。聞いたことには別に大した意味もないのに、そんな風に言い訳のように言われると、鈴が何を考えているのかと、勝手にいろいろな想像をしてしまいそうになる。
 たとえば、俺にしか見えない人たちに呼ばれているんじゃないかとか。
 たとえば、鈴が、俺にしか見えない人たちの世界のヒトなんじゃないかとか。
 たとえば、俺を見ているんじゃないかとか。
 たとえば…。

『…夜が、好き。なんです』

 俺の勝手な妄想を遮るように、鈴が言う。

『池井さんも。そうですよね?』

 それが、答えになっていたかはよくわからない。けれど、何故かその時の俺はその言葉に納得してしまった。
 俺も、夜が、好きだ。
 もしかしたら、そこでは、一歩間違うだけで、帰ってこられないくらいの致命的な場所に迷い込んでしまうかもしれない。一瞬ちがうだけで、俺の知っている世界とはまったく違う風景が見えてしまうかもしれない。そんなことが当たり前の景色のすぐ隣にそ知らぬ顔で転がっているかもしれない。そんな暗い時間が俺も好きだ。
 そして、多分俺の想像では、俺と同じような意味で、鈴が好きだと言ったのが、何故か嬉しかった。

『うん』

 だから、今はその答えでいい。それ以上のことは、話せるようになるまで、時間がかかるのかもしれないけれど、まだ、出会ったばかりなんだ。少しずつでいい。
 素直に、そう、思った。
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