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絵本
絵本 6
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『あの。これ』
気付くと、眼鏡の青年が、カウンターの前まで来ていた。
差し出しているのはさっきの絵本だ。
『返しておいてもらえますか?』
言われている意味がよくわからなくて、俺は返事もせずにその顔を見上げた。
本当に整った顔をしていると、間の抜けた感想が頭を過る。
『あのカートに戻したらダメんなんすよね? どこの場所だったかわかんなくなったんで、戻してもらってもいいですか?』
反応のない俺に、青年は分かりやすく言い換えた。
どうやら、ブックトラックに戻してもよかったものかわからずに、カウンターにいる俺に声をかけたらしい。
『…あ。はい。はい。承りました』
慌てて返事を返す。呆けていたのが恥ずかしくて、声が上ずってしまったのが、さらに恥ずかしい。
『ひとつ。聞いていいすか?』
そんな俺を気にもしていない様子で、青年が言う。
彼は、きっと、あの夜フラッシュメモリを拾ってやった男のことなんて覚えていないだろう。自慢ではないけれど、俺は一度会っただけの人に覚えられるほどの特徴なんて殆ど持ち合わせていない。
『はい』
だから、きっと、それは、図書館司書としての自分への質問だと思った。
『なんで、あそこに、椅子。置いたんすか?』
だから、それは、なんだか、少し、ズレた質問のような気がした。
『…あ。えと。な…なんとなく』
同時に、それは、彼が、あの少女のことが見えていないという意味なのだと分かった。
分かったから、俺は言葉を濁した。殆ど初対面の相手に”自分以外の人に見えない女の子が見えたからです”とは、言えない。さすがにそれくらいの人生経験は積んでいる。人と違うことでいいことなんて殆どないのだから。
『…そ。すか』
けれど、その嘘ともいえないようなごまかしに。彼の質問に誠実に答えないことに。罪悪感が湧き上がる。それは、その青年の表情がほんのわずかに、曇った気がしたからだ。
『や。あの。きっと、あの場所が座りやすいと思って』
変な奴だと思われたくない。
けれど、誠実でありたい。
そのせめぎあいの中で、出した妥協案は多分、答えにはなっていなかった。
『…そ。すか』
でも、彼は僅かに笑った。
それが、俺の答えが変だったからなのか、俺が馬鹿だと思ったのか、彼なりに納得したのか、理由は分からないけれど、よかったと。思う。
だから、差し出された本を受け取って、俺は聞いてみた。
『君は? どうして、あの場所に椅子を置いたんですか?』
俺の問いに、驚いた顔をして、少し思案気に視線を彷徨わせて、最後に微笑んで、彼は答える。
『きっと、あの場所が座りやすいと思って』
その笑顔は年相応(彼の年齢を知らないけれど)に悪戯っぽくて、なんだか、安心したのを覚えてる。
『それじゃ。”また”』
そう言って、青年は背中を向けた。今度は立ち止まることなく開いた自動ドアから出ていく。
『ありがとうございます』
俺はその背中を頭を下げて見送った。
『…また?』
それから、彼の言った言葉に首を傾げた。
別に変な言葉ではない。きっと、また、図書館を利用してくれるという意味なんだろう。と、思うけれど、その言葉は、少しだけ違うニュアンスを水底の砂のように舞い上げた。
ふと、目を落とす。
俺の手の中の絵本。
そのタイトルは…。
『たいせつなあなたへ』
そのタイトルが少女だけでなく、俺にとっても何かを意味しているように感じた、秋の終わりの雨の夜の出来事だった。
気付くと、眼鏡の青年が、カウンターの前まで来ていた。
差し出しているのはさっきの絵本だ。
『返しておいてもらえますか?』
言われている意味がよくわからなくて、俺は返事もせずにその顔を見上げた。
本当に整った顔をしていると、間の抜けた感想が頭を過る。
『あのカートに戻したらダメんなんすよね? どこの場所だったかわかんなくなったんで、戻してもらってもいいですか?』
反応のない俺に、青年は分かりやすく言い換えた。
どうやら、ブックトラックに戻してもよかったものかわからずに、カウンターにいる俺に声をかけたらしい。
『…あ。はい。はい。承りました』
慌てて返事を返す。呆けていたのが恥ずかしくて、声が上ずってしまったのが、さらに恥ずかしい。
『ひとつ。聞いていいすか?』
そんな俺を気にもしていない様子で、青年が言う。
彼は、きっと、あの夜フラッシュメモリを拾ってやった男のことなんて覚えていないだろう。自慢ではないけれど、俺は一度会っただけの人に覚えられるほどの特徴なんて殆ど持ち合わせていない。
『はい』
だから、きっと、それは、図書館司書としての自分への質問だと思った。
『なんで、あそこに、椅子。置いたんすか?』
だから、それは、なんだか、少し、ズレた質問のような気がした。
『…あ。えと。な…なんとなく』
同時に、それは、彼が、あの少女のことが見えていないという意味なのだと分かった。
分かったから、俺は言葉を濁した。殆ど初対面の相手に”自分以外の人に見えない女の子が見えたからです”とは、言えない。さすがにそれくらいの人生経験は積んでいる。人と違うことでいいことなんて殆どないのだから。
『…そ。すか』
けれど、その嘘ともいえないようなごまかしに。彼の質問に誠実に答えないことに。罪悪感が湧き上がる。それは、その青年の表情がほんのわずかに、曇った気がしたからだ。
『や。あの。きっと、あの場所が座りやすいと思って』
変な奴だと思われたくない。
けれど、誠実でありたい。
そのせめぎあいの中で、出した妥協案は多分、答えにはなっていなかった。
『…そ。すか』
でも、彼は僅かに笑った。
それが、俺の答えが変だったからなのか、俺が馬鹿だと思ったのか、彼なりに納得したのか、理由は分からないけれど、よかったと。思う。
だから、差し出された本を受け取って、俺は聞いてみた。
『君は? どうして、あの場所に椅子を置いたんですか?』
俺の問いに、驚いた顔をして、少し思案気に視線を彷徨わせて、最後に微笑んで、彼は答える。
『きっと、あの場所が座りやすいと思って』
その笑顔は年相応(彼の年齢を知らないけれど)に悪戯っぽくて、なんだか、安心したのを覚えてる。
『それじゃ。”また”』
そう言って、青年は背中を向けた。今度は立ち止まることなく開いた自動ドアから出ていく。
『ありがとうございます』
俺はその背中を頭を下げて見送った。
『…また?』
それから、彼の言った言葉に首を傾げた。
別に変な言葉ではない。きっと、また、図書館を利用してくれるという意味なんだろう。と、思うけれど、その言葉は、少しだけ違うニュアンスを水底の砂のように舞い上げた。
ふと、目を落とす。
俺の手の中の絵本。
そのタイトルは…。
『たいせつなあなたへ』
そのタイトルが少女だけでなく、俺にとっても何かを意味しているように感じた、秋の終わりの雨の夜の出来事だった。
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