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絵本
絵本 3
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その子に気付いたのは、多分、2か月ほど前だ。
その日も雨だった。
あまりに利用者が少なかったから、絵本の返本をしていた。数冊の絵本を抱えて、何度も書架の間を行ったり来たりする。
何度目かに本棚の間を抜けた時、さっき見たのと同じ空気の密度の違いに気づいた。
普段なら、スルーするところだ。それに気づいて、いいことなんてなかったから。悪いことばかりでもないのだが、特に何もない。ということが殆どで、仕事の手を止めるほどでもないと思った。
けれど、つい目で追ってしまっていたのか、書架の角を曲がろうとして腕がぶつかって本を落としてしまった。
そのとき、ふと、空気が震えたような気がしたんだ。
いろいろなこの世界のものではない人を見てきたけれど、こんな感覚は珍しかった。今思えば、きっと、その女の子の声のようなものだったのだと思う。見えない何かが立てた音に驚いて小さな女の子の上げた小さな悲鳴。それが、音ではなくて空気の揺らぎになって届いた。そんなふうに感じた。
まあ、俺の”感じた”は、あまり当てにならないから、気のせいかもしれない。けれど、慌てて眼鏡を外してみると、怯えた表情であたりを見回す少女がいた。
すぐに消えてしまったのだけれど。
それから、雨のたび、その子を見かけるようになった。多分、その時に初めて現れたのではなく、その日まで俺が気付かなかっただけなのだろう。物音に驚いて消えてしまうような気の弱い子だから。
だから、俺はその小さな利用者さんのためにせめて、椅子を用意する。
好きな絵本を探してあげたいけれど、声をかけると驚いて消えてしまうから、俺にできるのはそのくらいだった。
その子が所謂幽霊というやつのなのか?
という問いに答えを出そうとしたことはない。リマ男の時と同じだ。別に答えが出たとしても、そこに彼女がいることも、俺にしてやれることが殆どないことも同じなんだ。
ふと、視線を上げると、その子は椅子に座っていた。
オレンジ色の丸い木の座面にスチール製の四本足。子供用の背の低い小さな椅子に女の子がちょこんと座っている。それだけを切り取ると微笑ましい。
けれど、窓の外は雨の夜。
やはり子供用で背の低い木目調のテーブルの周りにはほかに誰もいない。ただ、彼女から少し離れたところに赤や、青や、緑や、黄色の色とりどりの椅子が好き勝手に散らばっている。
そして、その椅子に座った彼女はじっと、絵本ではなく、ただ、じっと。自動ドアを見ている。カウンターは自動ドアのすぐ隣にあるのだけれど、俺の方を見ることは、ない。
静かな館内には、もう、殆ど人はいない。さわさわとざわめき未満の少しだけ落ち着かないような空気だけが残っている。そこに遠い雨の音だけが響くのが、無音よりさらに静けさを際立たせていた。
この気持ちを言葉にするのは難しい。
彼女が何を思っているかわからないから。
だから、俺の決して多くはない経験から想像することしかできない。想像すると、切なさと、悲しみと、痛みと、孤独と、疑問が全部一緒くたになって溶けて、雨空の雲のように暗く沈んでいく。
でも、彼女の表情はどうしてもそんなどろどろとした黒い何かには見えない。
もっと、透明で純粋で、例えるなら空から落ちてくる雨粒のようだ。そこには無数の塵が内在しているけれど、けして淀んでいるようには見えない。
きっと、俺の知っている世界は、彼女の知っている世界と同じではないから、やはり、彼女の思っていることを理解することなんてできないんだろう。
もう、何度目になるのかわからないそんな結論に達して、俺はまた、視線を手元に移す。
そうして、今度は彼女のことを思索の片隅に追いやって(忘れたわけではなく)作業に戻った。
その日も雨だった。
あまりに利用者が少なかったから、絵本の返本をしていた。数冊の絵本を抱えて、何度も書架の間を行ったり来たりする。
何度目かに本棚の間を抜けた時、さっき見たのと同じ空気の密度の違いに気づいた。
普段なら、スルーするところだ。それに気づいて、いいことなんてなかったから。悪いことばかりでもないのだが、特に何もない。ということが殆どで、仕事の手を止めるほどでもないと思った。
けれど、つい目で追ってしまっていたのか、書架の角を曲がろうとして腕がぶつかって本を落としてしまった。
そのとき、ふと、空気が震えたような気がしたんだ。
いろいろなこの世界のものではない人を見てきたけれど、こんな感覚は珍しかった。今思えば、きっと、その女の子の声のようなものだったのだと思う。見えない何かが立てた音に驚いて小さな女の子の上げた小さな悲鳴。それが、音ではなくて空気の揺らぎになって届いた。そんなふうに感じた。
まあ、俺の”感じた”は、あまり当てにならないから、気のせいかもしれない。けれど、慌てて眼鏡を外してみると、怯えた表情であたりを見回す少女がいた。
すぐに消えてしまったのだけれど。
それから、雨のたび、その子を見かけるようになった。多分、その時に初めて現れたのではなく、その日まで俺が気付かなかっただけなのだろう。物音に驚いて消えてしまうような気の弱い子だから。
だから、俺はその小さな利用者さんのためにせめて、椅子を用意する。
好きな絵本を探してあげたいけれど、声をかけると驚いて消えてしまうから、俺にできるのはそのくらいだった。
その子が所謂幽霊というやつのなのか?
という問いに答えを出そうとしたことはない。リマ男の時と同じだ。別に答えが出たとしても、そこに彼女がいることも、俺にしてやれることが殆どないことも同じなんだ。
ふと、視線を上げると、その子は椅子に座っていた。
オレンジ色の丸い木の座面にスチール製の四本足。子供用の背の低い小さな椅子に女の子がちょこんと座っている。それだけを切り取ると微笑ましい。
けれど、窓の外は雨の夜。
やはり子供用で背の低い木目調のテーブルの周りにはほかに誰もいない。ただ、彼女から少し離れたところに赤や、青や、緑や、黄色の色とりどりの椅子が好き勝手に散らばっている。
そして、その椅子に座った彼女はじっと、絵本ではなく、ただ、じっと。自動ドアを見ている。カウンターは自動ドアのすぐ隣にあるのだけれど、俺の方を見ることは、ない。
静かな館内には、もう、殆ど人はいない。さわさわとざわめき未満の少しだけ落ち着かないような空気だけが残っている。そこに遠い雨の音だけが響くのが、無音よりさらに静けさを際立たせていた。
この気持ちを言葉にするのは難しい。
彼女が何を思っているかわからないから。
だから、俺の決して多くはない経験から想像することしかできない。想像すると、切なさと、悲しみと、痛みと、孤独と、疑問が全部一緒くたになって溶けて、雨空の雲のように暗く沈んでいく。
でも、彼女の表情はどうしてもそんなどろどろとした黒い何かには見えない。
もっと、透明で純粋で、例えるなら空から落ちてくる雨粒のようだ。そこには無数の塵が内在しているけれど、けして淀んでいるようには見えない。
きっと、俺の知っている世界は、彼女の知っている世界と同じではないから、やはり、彼女の思っていることを理解することなんてできないんだろう。
もう、何度目になるのかわからないそんな結論に達して、俺はまた、視線を手元に移す。
そうして、今度は彼女のことを思索の片隅に追いやって(忘れたわけではなく)作業に戻った。
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