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散歩道
散歩道 2
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『ほら。なんてことない』
安心して次の一歩を踏み出す。
そして、次の一歩。次の一歩。
そのとき。
ちりん。
と、何かが聞こえた。
思わず立ち止まる。ず。と、スニーカーの底に小さな砂粒が軋む感覚。
途端に、何かが湧きたつような感覚に包まれる。下からだ。下から何かが出てきて地面から滲みだしていくようだ。そう身体が感じ取った瞬間に、その感覚を追うように、今度は目が黒いアスファルトの上に分かりにくいのだが、何か黒い湯気のようなものを認識した。
それは、よく晴れた日、夕立のあとに地面から湧きたつ水蒸気に似ていた。けれど、半透明で白いそれと違って、黒い。
『なんだよ。これ』
声が震える。小学生だった俺にはそれに対して合理的な解釈を与えられるような経験値はない。
いや。多分、10年以上経過した今だって、それに対して何の答えも自分は持ち合わせてはいない。
ただ、自分の前でその黒い靄? 煙? 淀み? それとも、澱。のようなものが、まるで意識でも持っているように、次第に集まっていくのを見ているしかなかった。
『あ…あ』
なんだか、酷く情けない声だ。自分の口から洩れたものだとは思えない。
そんなふうに立ちすくんで、何もできないでいるうちに、それは、集まって密度を増していった。靄だとか、煙みたいな実体を感じさせないものから、綿のようなふわふわとしているけれど、確かにそこに会って触れるられるものに変わっていく。
なんだかまずいものを見てしまっている。
ようやくそう思い始めたのは、それが、柔らかい体毛を持っている。例えば猫のような質感を感じるようになってからだった頃だった。
どうしよう。
けれど、それが、ネコではないことはその頃になると既に俺にもわかっていた。猫とは比べ物にならないくらいに大きい。小学生の自分よりも大きい。
おそらく高さは170から180センチほど。横幅は40から50センチ程度。上部に球体。それは、バスケットボールよりは少し小さくて、左右に大きく張った部分の上の細く縊れた筒状の上に載っている。張り出した部分からは下に伸びた棒状のものが、左右どちらにもついている。中心の部分は緩やかな逆三角で、その下は球体とも立方体ともいえない歪な張り出しがある。それを、地面から伸びた二本の棒状のものが支えている。
それが、街灯のささない黒い場所にいる。
それがなんであるかくらい、もうわかる。
ひとだ。
黒いものは集まって固まって凝縮されて、確実に俺がよく知っているものの形になった。それを人だと認識してからは加速度的に。
ふわふわと綿毛のようだった表面ははっきりとした輪郭を持つ中身の詰まった質感に。だらりと垂れた両手や、路面を踏む両足には確かな重量感を感じる。
それをどう表現したらいいのか。一番近い感覚は、カメラのピントが完全にぼやけた状態からくっきりとクリアになっていくようなそんな感覚だった。
おとこのひとだ。
完全にピントがあうと、そこには若いサラリーマン風の男性がいた。
全体が黒いのは変わらないのだが、スーツを着ているのがわかる。両腕をだらりと身体の横に垂らして、左手は惰性のように開いたまま、右手は何か握っているようにむすばれている。
バスケットボールより少し小さいと思っていた頭は、ぼさぼさとまではいわないが、少し髪が乱れている。俺の方を向いてはいないから、表情は見えない。ただ、真後ろにいるわけでもないから、顎のラインが少しだけ動いているのが見て分かる。
なにか、しゃべっているんだ。
そう思うと同時にぶつぶつと何かを呟く声が聞こえるようになる。
ききたくない。
何を言っているのか聞こえてしまうのが怖い。聞いてしまったら、きっと、何かとんでもなく悪いことが起こる。そんな気がする。
俺は、反射的に耳を塞ごうとした。
その瞬間。つま先に何かが触れた。
こつん。と、小さな音を立てて、小石が転がる。
それは、ごくごく小さな音だったはずだ。けれど、かつて靄のようだったサラリーマン風の男は、首の上に乗るバスケットボールより少し小さい球体。頭を僅かに動かした。
自然な動作だった。暗い道にいて背後で物音がしたら、誰でもそうするだろう。そんな普通の仕草で男は振り返ろうとしたんだ。
だめだ。だめだ。
けれど、それは俺にとっては致命的と言っていいほどの出来事だった。
目があったらヤバい。
暗闇の帰り道。靄のように突然現れた男。ぶつぶつと呟く声。
これが、嫌な予感と言わず何というだろう。
目があったら絶対にヤバい。少しでも防衛本能があるものなら、誰でもそう思う。きっと、恐ろしい目に合う。最悪、行方不明とか、惨殺死体とか、呪われるとか。
逃げなきゃ。
こんなとき、大抵のホラー小説なら脚は金縛りにあったように動かないものなのだろう。御多分に漏れず俺もそうだった。
逃げないといけないと分かっているのに、身体が動かない。
男がゆっくりと振り返る。
その後ろ姿が、横顔になり、両方の目が、俺の方に向いた。
安心して次の一歩を踏み出す。
そして、次の一歩。次の一歩。
そのとき。
ちりん。
と、何かが聞こえた。
思わず立ち止まる。ず。と、スニーカーの底に小さな砂粒が軋む感覚。
途端に、何かが湧きたつような感覚に包まれる。下からだ。下から何かが出てきて地面から滲みだしていくようだ。そう身体が感じ取った瞬間に、その感覚を追うように、今度は目が黒いアスファルトの上に分かりにくいのだが、何か黒い湯気のようなものを認識した。
それは、よく晴れた日、夕立のあとに地面から湧きたつ水蒸気に似ていた。けれど、半透明で白いそれと違って、黒い。
『なんだよ。これ』
声が震える。小学生だった俺にはそれに対して合理的な解釈を与えられるような経験値はない。
いや。多分、10年以上経過した今だって、それに対して何の答えも自分は持ち合わせてはいない。
ただ、自分の前でその黒い靄? 煙? 淀み? それとも、澱。のようなものが、まるで意識でも持っているように、次第に集まっていくのを見ているしかなかった。
『あ…あ』
なんだか、酷く情けない声だ。自分の口から洩れたものだとは思えない。
そんなふうに立ちすくんで、何もできないでいるうちに、それは、集まって密度を増していった。靄だとか、煙みたいな実体を感じさせないものから、綿のようなふわふわとしているけれど、確かにそこに会って触れるられるものに変わっていく。
なんだかまずいものを見てしまっている。
ようやくそう思い始めたのは、それが、柔らかい体毛を持っている。例えば猫のような質感を感じるようになってからだった頃だった。
どうしよう。
けれど、それが、ネコではないことはその頃になると既に俺にもわかっていた。猫とは比べ物にならないくらいに大きい。小学生の自分よりも大きい。
おそらく高さは170から180センチほど。横幅は40から50センチ程度。上部に球体。それは、バスケットボールよりは少し小さくて、左右に大きく張った部分の上の細く縊れた筒状の上に載っている。張り出した部分からは下に伸びた棒状のものが、左右どちらにもついている。中心の部分は緩やかな逆三角で、その下は球体とも立方体ともいえない歪な張り出しがある。それを、地面から伸びた二本の棒状のものが支えている。
それが、街灯のささない黒い場所にいる。
それがなんであるかくらい、もうわかる。
ひとだ。
黒いものは集まって固まって凝縮されて、確実に俺がよく知っているものの形になった。それを人だと認識してからは加速度的に。
ふわふわと綿毛のようだった表面ははっきりとした輪郭を持つ中身の詰まった質感に。だらりと垂れた両手や、路面を踏む両足には確かな重量感を感じる。
それをどう表現したらいいのか。一番近い感覚は、カメラのピントが完全にぼやけた状態からくっきりとクリアになっていくようなそんな感覚だった。
おとこのひとだ。
完全にピントがあうと、そこには若いサラリーマン風の男性がいた。
全体が黒いのは変わらないのだが、スーツを着ているのがわかる。両腕をだらりと身体の横に垂らして、左手は惰性のように開いたまま、右手は何か握っているようにむすばれている。
バスケットボールより少し小さいと思っていた頭は、ぼさぼさとまではいわないが、少し髪が乱れている。俺の方を向いてはいないから、表情は見えない。ただ、真後ろにいるわけでもないから、顎のラインが少しだけ動いているのが見て分かる。
なにか、しゃべっているんだ。
そう思うと同時にぶつぶつと何かを呟く声が聞こえるようになる。
ききたくない。
何を言っているのか聞こえてしまうのが怖い。聞いてしまったら、きっと、何かとんでもなく悪いことが起こる。そんな気がする。
俺は、反射的に耳を塞ごうとした。
その瞬間。つま先に何かが触れた。
こつん。と、小さな音を立てて、小石が転がる。
それは、ごくごく小さな音だったはずだ。けれど、かつて靄のようだったサラリーマン風の男は、首の上に乗るバスケットボールより少し小さい球体。頭を僅かに動かした。
自然な動作だった。暗い道にいて背後で物音がしたら、誰でもそうするだろう。そんな普通の仕草で男は振り返ろうとしたんだ。
だめだ。だめだ。
けれど、それは俺にとっては致命的と言っていいほどの出来事だった。
目があったらヤバい。
暗闇の帰り道。靄のように突然現れた男。ぶつぶつと呟く声。
これが、嫌な予感と言わず何というだろう。
目があったら絶対にヤバい。少しでも防衛本能があるものなら、誰でもそう思う。きっと、恐ろしい目に合う。最悪、行方不明とか、惨殺死体とか、呪われるとか。
逃げなきゃ。
こんなとき、大抵のホラー小説なら脚は金縛りにあったように動かないものなのだろう。御多分に漏れず俺もそうだった。
逃げないといけないと分かっているのに、身体が動かない。
男がゆっくりと振り返る。
その後ろ姿が、横顔になり、両方の目が、俺の方に向いた。
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人の証言と記憶の曖昧さをテーマに書いたので、ハッキリとせずに終わります。
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