3 / 392
水鏡
水鏡 3
しおりを挟む
ちりん。
と、今度は気のせいではなく音がした。
つられて視線をあげてしまう。そこには明るい月明かりに照らされた水面が広がっている。
『…あ』
映っていたのは特に変わったことのないいつもの自分の顔だった。
風呂上がりに乾かしもしないで家を出てきたから、髪はぺたりと張り付いている。これは、コンプレックスなのだが、よく童顔と言われる。だから、いつも伊達メガネをかけている。けれど、こうしてみるとやはり童顔は隠しきれていないみたいだ。
それから、やや頬に影があるのは今日の仕事が忙しかったうえに、こんな時間にこんなところまで出かけなければいけなくなったからだろう。
表情はぽかん。と、呆けている。間の抜けた顔だ。
とにかく、いつも鏡で見ている自分の姿がそこにあった。
『…ですよね?』
当たり前のことに安心してから、心配になっていた自分が恥ずかしくなった。いい年して中学生の噂に怖くなるなんて痛すぎる。
『も、いいや』
脱力して、呟いてから、俺は立ちあがった。
もう、明日怒られればいいやという気持ちになる。
自転車のところまで戻ろうと、水面に背中を向けた時だった。
おい。
誰かの声が聞こえた。
おい。
誰かの声が聞こえた。
『え? はい?』
足がぴたり。と、止まる。
辺りを見回してみるが誰の姿もない。気のせいだろうかと、また歩き出す。
おい。
また、聞こえた。
それは、男の声だった。
どこかで、聞いたことがある気がする声。
おい。
足が動かない。
この声を聞いたのはどこだっただろう。
頭をフル回転させる。けれど、同時に知りたくはなかった。
おい。
その声が誰の声だったのか、気が付いて俺はひゅ。と、小さく息を吸い込んだ。心臓を氷水に沈められたような気がする。冷たい。
それは、確かに自分自身の声だった。
普段、自分の自覚している自分の声ではない。小さなころ、悪戯で録音した自分の声を再生したみたいな声。上ずったようないつもより高く聞こえる自分自身の声。
ヤバい。
そう思うけれど、身体が動かない。まるで、砂でも詰め込まれたかのように、関節がぎしぎしと音を立てて動こうとする意志を拒む。
これは、ヤバいやつだ。
背中を冷たい汗が伝う。命一杯力を入れているのに、指先を動かすことすらできない。これは、本当に俺の手なんだろうか。
ぐわんぐわん。と、頭の中に警報が鳴る。危険を知らせるアラート音だ。
あの中学生は何と言っていただろう。
“その淵を覗き込むと、その人の本性が映るんだって”
水面に映っていたのは、俺自身だった。普段、鏡で見慣れている俺だ。別にイケメンになったわけでも、覚えている以上にブサイクになったわけでもない。いや、もしかしたら自分自身で美化していただけなのかもと、思いかけてから、水面に映った顔だった別に美形だったわけでも何でもないと思う。
それが、俺の本性であると言われればそうかもしれない。けれど、普通の自分の姿だった。
そこでさらに、俺ははっとした。
メガネ。かけていない。
誰にも会うつもりなんてなかったから、眼鏡は外したままだった。俺の眼鏡は伊達だから、なくても気にはならなかった。髪だって自転車に乗ってきて、ほぼ渇いていたはずだ。
いや。他にもなにか。いつもの自分と違うところがあったような。
必死で、その姿を思いだす。
水面に映った自分は、本当に自分だったのか。
ふと、何か青い光が頭をかすめる。
見なかったことにしておきたかった何かが記憶の底から湧き上がってきた。
青い色。
鈴の音。
眼鏡をかけていない自分。
手を繋いでいたのは。
手を繋いでいたのは?
取り留めもなく、いろいろな考えが浮かんで消えた。
“違った姿が見えた時は中のヤツが話しかけてくるんだって。で。その声に答えると…”
頭の中で、昼間の子供たちの会話がかってに再生されたから、取り留めのない思考は一気にそちらに流れていく。
こたえる?
おい。と、声が聞こえた時。自分はどうしたっけ。考えを巡らせる。
それは、浮かんできた思考を水底に沈めるような作業だった。
はい?
と、俺は言った。それは、答えになるだろうか。
中学生は答えるとどうなると言っていた?
妹の友達が?
ああ。その後は、確か。
と、今度は気のせいではなく音がした。
つられて視線をあげてしまう。そこには明るい月明かりに照らされた水面が広がっている。
『…あ』
映っていたのは特に変わったことのないいつもの自分の顔だった。
風呂上がりに乾かしもしないで家を出てきたから、髪はぺたりと張り付いている。これは、コンプレックスなのだが、よく童顔と言われる。だから、いつも伊達メガネをかけている。けれど、こうしてみるとやはり童顔は隠しきれていないみたいだ。
それから、やや頬に影があるのは今日の仕事が忙しかったうえに、こんな時間にこんなところまで出かけなければいけなくなったからだろう。
表情はぽかん。と、呆けている。間の抜けた顔だ。
とにかく、いつも鏡で見ている自分の姿がそこにあった。
『…ですよね?』
当たり前のことに安心してから、心配になっていた自分が恥ずかしくなった。いい年して中学生の噂に怖くなるなんて痛すぎる。
『も、いいや』
脱力して、呟いてから、俺は立ちあがった。
もう、明日怒られればいいやという気持ちになる。
自転車のところまで戻ろうと、水面に背中を向けた時だった。
おい。
誰かの声が聞こえた。
おい。
誰かの声が聞こえた。
『え? はい?』
足がぴたり。と、止まる。
辺りを見回してみるが誰の姿もない。気のせいだろうかと、また歩き出す。
おい。
また、聞こえた。
それは、男の声だった。
どこかで、聞いたことがある気がする声。
おい。
足が動かない。
この声を聞いたのはどこだっただろう。
頭をフル回転させる。けれど、同時に知りたくはなかった。
おい。
その声が誰の声だったのか、気が付いて俺はひゅ。と、小さく息を吸い込んだ。心臓を氷水に沈められたような気がする。冷たい。
それは、確かに自分自身の声だった。
普段、自分の自覚している自分の声ではない。小さなころ、悪戯で録音した自分の声を再生したみたいな声。上ずったようないつもより高く聞こえる自分自身の声。
ヤバい。
そう思うけれど、身体が動かない。まるで、砂でも詰め込まれたかのように、関節がぎしぎしと音を立てて動こうとする意志を拒む。
これは、ヤバいやつだ。
背中を冷たい汗が伝う。命一杯力を入れているのに、指先を動かすことすらできない。これは、本当に俺の手なんだろうか。
ぐわんぐわん。と、頭の中に警報が鳴る。危険を知らせるアラート音だ。
あの中学生は何と言っていただろう。
“その淵を覗き込むと、その人の本性が映るんだって”
水面に映っていたのは、俺自身だった。普段、鏡で見慣れている俺だ。別にイケメンになったわけでも、覚えている以上にブサイクになったわけでもない。いや、もしかしたら自分自身で美化していただけなのかもと、思いかけてから、水面に映った顔だった別に美形だったわけでも何でもないと思う。
それが、俺の本性であると言われればそうかもしれない。けれど、普通の自分の姿だった。
そこでさらに、俺ははっとした。
メガネ。かけていない。
誰にも会うつもりなんてなかったから、眼鏡は外したままだった。俺の眼鏡は伊達だから、なくても気にはならなかった。髪だって自転車に乗ってきて、ほぼ渇いていたはずだ。
いや。他にもなにか。いつもの自分と違うところがあったような。
必死で、その姿を思いだす。
水面に映った自分は、本当に自分だったのか。
ふと、何か青い光が頭をかすめる。
見なかったことにしておきたかった何かが記憶の底から湧き上がってきた。
青い色。
鈴の音。
眼鏡をかけていない自分。
手を繋いでいたのは。
手を繋いでいたのは?
取り留めもなく、いろいろな考えが浮かんで消えた。
“違った姿が見えた時は中のヤツが話しかけてくるんだって。で。その声に答えると…”
頭の中で、昼間の子供たちの会話がかってに再生されたから、取り留めのない思考は一気にそちらに流れていく。
こたえる?
おい。と、声が聞こえた時。自分はどうしたっけ。考えを巡らせる。
それは、浮かんできた思考を水底に沈めるような作業だった。
はい?
と、俺は言った。それは、答えになるだろうか。
中学生は答えるとどうなると言っていた?
妹の友達が?
ああ。その後は、確か。
0
お気に入りに追加
30
あなたにおすすめの小説

鬼上司と秘密の同居
なの
BL
恋人に裏切られ弱っていた会社員の小沢 海斗(おざわ かいと)25歳
幼馴染の悠人に助けられ馴染みのBARへ…
そのまま酔い潰れて目が覚めたら鬼上司と呼ばれている浅井 透(あさい とおる)32歳の部屋にいた…
いったい?…どうして?…こうなった?
「お前は俺のそばに居ろ。黙って愛されてればいい」
スパダリ、イケメン鬼上司×裏切られた傷心海斗は幸せを掴むことができるのか…
性描写には※を付けております。

見ぃつけた。
茉莉花 香乃
BL
小学生の時、意地悪されて転校した。高校一年生の途中までは穏やかな生活だったのに、全寮制の学校に転入しなければならなくなった。そこで、出会ったのは…
他サイトにも公開しています

淫愛家族
箕田 はる
BL
婿養子として篠山家で生活している睦紀は、結婚一年目にして妻との不仲を悩んでいた。
事あるごとに身の丈に合わない結婚かもしれないと考える睦紀だったが、以前から親交があった義父の俊政と義兄の春馬とは良好な関係を築いていた。
二人から向けられる優しさは心地よく、迷惑をかけたくないという思いから、睦紀は妻と向き合うことを決意する。
だが、同僚から渡された風俗店のカードを返し忘れてしまったことで、正しい三人の関係性が次第に壊れていく――

ハイスペックED~元凶の貧乏大学生と同居生活~
みきち@書籍発売中!
BL
イケメン投資家(24)が、学生時代に初恋拗らせてEDになり、元凶の貧乏大学生(19)と同居する話。
成り行きで添い寝してたらとんでも関係になっちゃう、コメディ風+お料理要素あり♪
イケメン投資家(高見)×貧乏大学生(主人公:凛)

【完結・BL】俺をフッた初恋相手が、転勤して上司になったんだが?【先輩×後輩】
彩華
BL
『俺、そんな目でお前のこと見れない』
高校一年の冬。俺の初恋は、見事に玉砕した。
その後、俺は見事にDTのまま。あっという間に25になり。何の変化もないまま、ごくごくありふれたサラリーマンになった俺。
そんな俺の前に、運命の悪戯か。再び初恋相手は現れて────!?

【完結】ぎゅって抱っこして
かずえ
BL
幼児教育学科の短大に通う村瀬一太。訳あって普通の高校に通えなかったため、働いて貯めたお金で二年間だけでもと大学に入学してみたが、学費と生活費を稼ぎつつ学校に通うのは、考えていたよりも厳しい……。
でも、頼れる者は誰もいない。
自分で頑張らなきゃ。
本気なら何でもできるはず。
でも、ある日、金持ちの坊っちゃんと心の中で呼んでいた松島晃に苦手なピアノの課題で助けてもらってから、どうにも自分の心がコントロールできなくなって……。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる