真鍮とアイオライト 1

司書Y

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水鏡

水鏡 3

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 ちりん。

 と、今度は気のせいではなく音がした。
 つられて視線をあげてしまう。そこには明るい月明かりに照らされた水面が広がっている。

『…あ』

 映っていたのは特に変わったことのないいつもの自分の顔だった。
 風呂上がりに乾かしもしないで家を出てきたから、髪はぺたりと張り付いている。これは、コンプレックスなのだが、よく童顔と言われる。だから、いつも伊達メガネをかけている。けれど、こうしてみるとやはり童顔は隠しきれていないみたいだ。
 それから、やや頬に影があるのは今日の仕事が忙しかったうえに、こんな時間にこんなところまで出かけなければいけなくなったからだろう。
 表情はぽかん。と、呆けている。間の抜けた顔だ。
 とにかく、いつも鏡で見ている自分の姿がそこにあった。

『…ですよね?』

 当たり前のことに安心してから、心配になっていた自分が恥ずかしくなった。いい年して中学生の噂に怖くなるなんて痛すぎる。

『も、いいや』

 脱力して、呟いてから、俺は立ちあがった。
 もう、明日怒られればいいやという気持ちになる。
 自転車のところまで戻ろうと、水面に背中を向けた時だった。

 おい。

 誰かの声が聞こえた。


 おい。

 誰かの声が聞こえた。

『え? はい?』

 足がぴたり。と、止まる。
 辺りを見回してみるが誰の姿もない。気のせいだろうかと、また歩き出す。

 おい。

 また、聞こえた。
 それは、男の声だった。
 どこかで、聞いたことがある気がする声。

 おい。

 足が動かない。
 この声を聞いたのはどこだっただろう。
 頭をフル回転させる。けれど、同時に知りたくはなかった。

 おい。

 その声が誰の声だったのか、気が付いて俺はひゅ。と、小さく息を吸い込んだ。心臓を氷水に沈められたような気がする。冷たい。
 それは、確かに自分自身の声だった。
 普段、自分の自覚している自分の声ではない。小さなころ、悪戯で録音した自分の声を再生したみたいな声。上ずったようないつもより高く聞こえる自分自身の声。

 ヤバい。

 そう思うけれど、身体が動かない。まるで、砂でも詰め込まれたかのように、関節がぎしぎしと音を立てて動こうとする意志を拒む。

 これは、ヤバいやつだ。

 背中を冷たい汗が伝う。命一杯力を入れているのに、指先を動かすことすらできない。これは、本当に俺の手なんだろうか。
 ぐわんぐわん。と、頭の中に警報が鳴る。危険を知らせるアラート音だ。

 あの中学生は何と言っていただろう。

“その淵を覗き込むと、その人の本性が映るんだって”

 水面に映っていたのは、俺自身だった。普段、鏡で見慣れている俺だ。別にイケメンになったわけでも、覚えている以上にブサイクになったわけでもない。いや、もしかしたら自分自身で美化していただけなのかもと、思いかけてから、水面に映った顔だった別に美形だったわけでも何でもないと思う。
 それが、俺の本性であると言われればそうかもしれない。けれど、普通の自分の姿だった。
 そこでさらに、俺ははっとした。

 メガネ。かけていない。

 誰にも会うつもりなんてなかったから、眼鏡は外したままだった。俺の眼鏡は伊達だから、なくても気にはならなかった。髪だって自転車に乗ってきて、ほぼ渇いていたはずだ。
 いや。他にもなにか。いつもの自分と違うところがあったような。
 必死で、その姿を思いだす。
 水面に映った自分は、本当に自分だったのか。

 ふと、何か青い光が頭をかすめる。
 見なかったことにしておきたかった何かが記憶の底から湧き上がってきた。
 青い色。
 鈴の音。
 眼鏡をかけていない自分。

 手を繋いでいたのは。

 手を繋いでいたのは?

 取り留めもなく、いろいろな考えが浮かんで消えた。

“違った姿が見えた時は中のヤツが話しかけてくるんだって。で。その声に答えると…”

 頭の中で、昼間の子供たちの会話がかってに再生されたから、取り留めのない思考は一気にそちらに流れていく。

 こたえる?

 おい。と、声が聞こえた時。自分はどうしたっけ。考えを巡らせる。
 それは、浮かんできた思考を水底に沈めるような作業だった。

 はい?

 と、俺は言った。それは、答えになるだろうか。
 中学生は答えるとどうなると言っていた?
 妹の友達が?
 ああ。その後は、確か。
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