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短編集 【L'Oiseau bleu】

麒麟と九尾と一角と 6

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 「……あ」

 と、漏らした翡翠の呟きに、大泉医師は言葉を止めた。

「あ。すみません」

 それから、大泉医師の言葉を遮ってしまって申し訳なさそうに俯く翡翠が何に気を取られて声を上げたのかに気付いて、彼は微笑んだ。

「君の耳は特別製だな。いや。お待ちかねの足音だったからかね?」

 悪戯っぽい笑顔になって老医師は少し意地悪く言う。もちろん、小動物のように外の音に敏感な翡翠でなくても、その『足音』の主が誰なのか、もう、彼にもわかっているだろう。決して騒がしいわけではない。けれど、押し殺しているわけでもない足音なら、一般人ではないスレイヤー資格を持つ大泉医師が気付かないわけがない。
 その足音は、二人のいる部屋のドアの前で止まった。それから、躊躇うことなくドアをノックする音が聞こえる。

「入りなさい」

 翡翠に軽く目配せして了解を求めてから、彼はドアの向こうの人物に言った。

「翡翠」

 スライド式のドアを開けたのは、二人が揃って思った通りの人物だった。

「一青」

 所属のスレイヤー事務所に報告書を出しに行っていた一青だ。翡翠の顔を確認すると安心したように微笑んで、歩み寄ってくる。

「ごめんな? 思ったより時間かかった。検査多くて大変だったろ?」

 丸椅子に座った翡翠の前に跪いて顔を見上げ、翡翠の両手を握って一青が言った。握ってくれた手から温もりが伝わって、安心する。残酷な想像が現実にならなかったことに安堵して、小さくため息のような吐息が漏れた。

「疲れた?」

 ひそめた嘆息に心配そうに一青が顔を覗き込んでくる。翡翠のそんな小さな変化でも彼は見逃さずに見ていてくれる。それが、恥ずかしいような嬉しいような感覚。ただ、心配はさせたくなかった。

「や。疲れてはいな……」

 そこまで呟いたところで、一青の両手が翡翠の頬を包み込んだ。そして、その手で優しく顔を一青の方に向けられる。

「一青……?」

 綺麗な青い瞳が翡翠を見ていた。そのくれる直前の深い空の色のような色合いに思わず、見惚れてしまう。ただ、ただ、その色は、その色が収まった顔は人間離れするほどに綺麗だった。

「あの。俺は疲れてなんて……いな……いよ?」

 目を逸らすことができない。
 それは、両手で顔を包み込まれているから。だけではなく、己に向けられるどんな表情でも見逃したくないという翡翠の願望のせいだったのかもしれなかった。

「じゃ、顔が曇って見えるのは気のせい? ゲートだって、揺らいでるのに?」

 口調とは裏腹に声にも表情にも責めるような色はない。ただ、翡翠を気遣ってくれているだけだと分かる。

「ホントに……疲れてないよ。ただ……まだ、自由とか、幸せとか、慣れなくて怖いだけ」

 だから、言葉は選んだけれど、素直な思いを口に出す。
 翡翠のゲートを覆う一青の扉がある限り、多分、感情の揺らぎを隠すことはできない。どんなに離れていてもきっとわかってしまうのだ。
 ただ、あの男にことを考えているのは知られたくなかった。それを知った一青が不快な思いをするのがわかっていたからだ。

「ん。そだよな。ごめんな? 一人にするんじゃなかった」

 翡翠の頭をそっと抱き寄せて、一青が言う。

「一青は何も悪くない。ただ、まだ、慣れてないだけだ。きっと、少し落ち着けばこんなことで揺れたりしなくなるから」

 すり。と、その腕に頬擦りをして翡翠は答えた。
 たとえ時間が経って落ち着いてきたとしても久米木への恐怖を忘れることができるとは思えない。あの男につけられた心の傷はきっと一生その傷口が塞がることはないだろう。ただ、一青がそばにいてくれれば、その傷の痛みにも耐えることができるだろうと思うだけだ。

「揺れてもいい。俺にしか分からないし。でも、ゲートが揺らぐとき、翡翠が辛いなら、止めたい」

 優しい言葉にぎゅ。と、心がある場所を握られたような気がする。それは、痛いとか、辛いとかではなく、苦しいけれど、心地よかった。大切にされていると実感できた。

「……ありがと。うれしい。でも、できるだけでいい。それで十分」

 一青がいなければ何もできない自分にはなりたくない。とは、口にしなかった。一青がいなくなった時に困らないように。と、言っているように思われたくなかったからだ。そして、本当に一青がいなくなる日に備えようとしている自分がいることを知っていたからだ。

「ん」

 一青は納得した顔をしてはいなかった。何か感じる者はあったのだろう。けれど、一青はそれ以上追求はしなかった。
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