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短編集 【L'Oiseau bleu】
アリアドネ 3
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「……ん」
夢うつつのままそんなことを考えていたら、ふと、低い声が聞こえてきた。
「え?」
その声にようやく、頭が覚醒してくる。
そして、自分の置かれている状況に気付いた。
首の下を通して、しなやかな筋肉を纏った腕が前方へ伸びている。もう一方の手は抱きしめるように腰のあたりに回されていた。背中に温かな感触。耳元にかかる吐息。爽やかな香り。
キングサイズの大きなベッドの上で、翡翠は一青の腕に抱かれて目覚めたのだった。
「……いっせ……い」
思わず呟く。
首を巡らせてその顔を見ると心地よさそうな寝顔だった。さらり。と、額にかかる髪がいつもよりその顔を幼く見せてどきり。とする。綺麗な寝顔だ。起きている時と違って、感情が乗っていない顔はあんまり整っているから、まるで作り物のように見える。
呼吸しているかすら心配になってそっと、手を伸ばして、その頬に触れる。温もりが伝わって来て、安心した。
愛する人は今、確かにここにいる。
「いつか……」
家族に再会できたなら、一青のことを一番に紹介したい。
伴侶だ。と。
一青みたいに何もかも出来過ぎの人が翡翠の伴侶になりたいと言ってくれたことに驚くかもしれない。いや、驚くだろう。他ならない翡翠自身が一番驚いているし、未だに信じ切れないでいるくらいなのだ。
ひとしきり驚いてから、きっと、母も父も喜んでくれるだろう。よかったね。と、笑ってくれるに違いない。それは、たとえ、翡翠が選んだ人が同性であってもかわらないだろう。
「一青……」
起こさないように小さな声で名前を呼ぶ。それから、もそもそと動いて向かい合うように身体を反転させた。
起こしてしまうだろうか。と、少し不安だったけれど、小さく身じろぐだけで、一青が目を覚ますことはなかった。一青は少し寝起きが悪いようだけれど、警戒心が強い一青がそもそも熟睡できている時点で信頼してくれているのがわかる。その人が安心して眠れる場所になれているということは、素直に嬉しかった。
たった数日で、その温もりが自分の世界の大切なものの一番大きな部分を一人占めにしている。それが、とても危ういのだと翡翠は知っていた。
どんなに大切に守っていても、失ってしまうことがある。
父や母。弟妹。優しくて、温かくて、柔らかな家族。小さな自分にとっては世界のすべてだった。たとえ何度も転居を繰り返さなければいけない不自由な生活でも、小さくて狭い家に暮らしても、それが、何かから逃げるためであったのだとしても、翡翠にとっては幸せは全てそこにあったのだ。その小さな家が、翡翠にとっての宝箱で、そこにはどんな宝石にも負けない輝きがあった。
けれど、それは奪われて、記憶すら残らなかった。
最悪な幼少期を過ごして、最悪な思春期を過ごして、大切にされることも、愛されることも、誰かに思いやられることも、気にかけてもらうことすらなくて、押し寄せてくる困難や壁に涙を流すことにすら疲れて、歯を食いしばる力も残っていなくて、ただ、ただ、茫然と流されていた時。ただ一人、優しくしてくれた人がいた。
その人を好きになるのに時間は必要なかったけれど、思いを告げることはできなかった。劣等感や自己嫌悪が身体に沁みついてしまっていたから。
それでも、手が届かなくても、笑顔が見られる距離、声が届く距離にいられるだけでもよかった。自分が頑張ったことを認めてもらえるだけで幸せだった。その人の『よく頑張ったな』の言葉が、その時の翡翠にはただ一つ、真っ暗だった世界を照らしてくれる光のように思えた。
けれど、それも、失くなってしまった。
だめだ。
と。思う。
思考がどんどんネガティブな方向へ傾いているのはわかっていた。
心を縛る呪いは解けたはずだ。
それでも、失うことばかりになれた心は、呪いの縛りなどなくなっても、恐れを振り払う方法を忘れてしまっていた。
夢うつつのままそんなことを考えていたら、ふと、低い声が聞こえてきた。
「え?」
その声にようやく、頭が覚醒してくる。
そして、自分の置かれている状況に気付いた。
首の下を通して、しなやかな筋肉を纏った腕が前方へ伸びている。もう一方の手は抱きしめるように腰のあたりに回されていた。背中に温かな感触。耳元にかかる吐息。爽やかな香り。
キングサイズの大きなベッドの上で、翡翠は一青の腕に抱かれて目覚めたのだった。
「……いっせ……い」
思わず呟く。
首を巡らせてその顔を見ると心地よさそうな寝顔だった。さらり。と、額にかかる髪がいつもよりその顔を幼く見せてどきり。とする。綺麗な寝顔だ。起きている時と違って、感情が乗っていない顔はあんまり整っているから、まるで作り物のように見える。
呼吸しているかすら心配になってそっと、手を伸ばして、その頬に触れる。温もりが伝わって来て、安心した。
愛する人は今、確かにここにいる。
「いつか……」
家族に再会できたなら、一青のことを一番に紹介したい。
伴侶だ。と。
一青みたいに何もかも出来過ぎの人が翡翠の伴侶になりたいと言ってくれたことに驚くかもしれない。いや、驚くだろう。他ならない翡翠自身が一番驚いているし、未だに信じ切れないでいるくらいなのだ。
ひとしきり驚いてから、きっと、母も父も喜んでくれるだろう。よかったね。と、笑ってくれるに違いない。それは、たとえ、翡翠が選んだ人が同性であってもかわらないだろう。
「一青……」
起こさないように小さな声で名前を呼ぶ。それから、もそもそと動いて向かい合うように身体を反転させた。
起こしてしまうだろうか。と、少し不安だったけれど、小さく身じろぐだけで、一青が目を覚ますことはなかった。一青は少し寝起きが悪いようだけれど、警戒心が強い一青がそもそも熟睡できている時点で信頼してくれているのがわかる。その人が安心して眠れる場所になれているということは、素直に嬉しかった。
たった数日で、その温もりが自分の世界の大切なものの一番大きな部分を一人占めにしている。それが、とても危ういのだと翡翠は知っていた。
どんなに大切に守っていても、失ってしまうことがある。
父や母。弟妹。優しくて、温かくて、柔らかな家族。小さな自分にとっては世界のすべてだった。たとえ何度も転居を繰り返さなければいけない不自由な生活でも、小さくて狭い家に暮らしても、それが、何かから逃げるためであったのだとしても、翡翠にとっては幸せは全てそこにあったのだ。その小さな家が、翡翠にとっての宝箱で、そこにはどんな宝石にも負けない輝きがあった。
けれど、それは奪われて、記憶すら残らなかった。
最悪な幼少期を過ごして、最悪な思春期を過ごして、大切にされることも、愛されることも、誰かに思いやられることも、気にかけてもらうことすらなくて、押し寄せてくる困難や壁に涙を流すことにすら疲れて、歯を食いしばる力も残っていなくて、ただ、ただ、茫然と流されていた時。ただ一人、優しくしてくれた人がいた。
その人を好きになるのに時間は必要なかったけれど、思いを告げることはできなかった。劣等感や自己嫌悪が身体に沁みついてしまっていたから。
それでも、手が届かなくても、笑顔が見られる距離、声が届く距離にいられるだけでもよかった。自分が頑張ったことを認めてもらえるだけで幸せだった。その人の『よく頑張ったな』の言葉が、その時の翡翠にはただ一つ、真っ暗だった世界を照らしてくれる光のように思えた。
けれど、それも、失くなってしまった。
だめだ。
と。思う。
思考がどんどんネガティブな方向へ傾いているのはわかっていた。
心を縛る呪いは解けたはずだ。
それでも、失うことばかりになれた心は、呪いの縛りなどなくなっても、恐れを振り払う方法を忘れてしまっていた。
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