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短編集 【L'Oiseau bleu】
アリアドネ 1
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夢を見た。
それは春のある日のことだった。
小さな平屋の家に、翡翠は両親と暮らしていた。多分、借家だったと思う。狭くて、家具もあまりない殺風景な家。生活が厳しかったわけではない。父はちゃんと仕事(おそらくはスレイヤーとしての)をしていたし、母はいつも家に居たけれど、魔符や魔法薬を作っているのを見た覚えがある。
その家には家具だけでなく、あまり思い出もない。頻繁に引っ越ししていたからだ。だから、恐らく裕福ではないという理由でそんな古い借家に住んでいたり、家の中にものがなかったわけではなく、頻繁にする引っ越しを楽にするためにものを持っていなかっただけなのだろう。
思い出はない。
と、言ったのだが、ないのは『家』の思い出であって、両親の思い出はたくさんある。あるはずだ。
呪いで封じられていたものが、心の底から、ふと湧き上がる瞬間がある。
大抵、それはとても温かい。柔らかくて、優しくて、甘くて、いい香りがした。だから、温かいものに触れたとき、柔らかいものに触れたとき、優しくしてもらったとき、甘いものを食べたとき、何かのいい匂いがしたとき、湧き上がってくるのだ。
形をしっかりと掴むのは難しい。
5歳のときの記憶だ。20年近く経過している。
それでも、それがどれほど幸福だったのか、翡翠にはわかった。
春のうららかな日。
小さな家の少し雑草が生えた庭。
古い家のサッシから、サンダルを履いて飛び出す。
そんなにいそいだら、ころんじゃうよ? と、少女のような母が言う。
へいき。と、答えて駆け出した。
庭の草花にひらひら。と、舞う蝶を追いかける。
黄色い蝶ふたつ。
白い蝶ひとつ。
陽光に照らされながら、まるで踊っているようだった。
手を延ばしたのは、蝶を手の中に収めたかったからではない。
一緒に踊りたかったからだ。
蝶が飛ぶ姿が楽しそうだったから。
そうして、翡翠が拙い踊りを踊ると、母は微笑む。とても嬉しそうな微笑みだ。
幸せな気持ち。温かくて柔らかくて嬉しい気持ち。
それを、幸せというのだと、その頃の翡翠は知らなかった。知らなかったのだけれど、名前はどうであれ、翡翠は確かに幸せだった。
急に子猫が泣くような声が聞こえてきた。母が立ち上がる。翡翠に背を向けて、家の中に入って行ってしまう。
少し寂しい。
もっと、見ていてほしかったし、笑いかけてほしかった。
けれど、翡翠は、ぐ。と、げんこつを握って前を向いた。
翡翠は知っていた。
ぼくはおにいちゃんだから。
母も、父も、お兄ちゃんだから我慢しなさいなんて言わない。
寂しかったら、寂しいと言っていいのだと教えてくれた。
だから、翡翠は我慢したわけではなかった。
ただ、大好きなお母さんが、お父さんが、大好きで大切にしている弟と妹を自分も大切にしようと思っただけだ。そうやって思っているうちに自分にとっても弟や妹が大切になっただけだ。
翡翠が頑張れば、お母さんも、お父さんも、弟も、妹も幸せになる。それはちっぽけな幸せかもしれない。けれど、昨日よりもほんの少しだけ楽しい今日になる。
それが少しずつ重なって少し大きくなったら、毎日はもっとキラキラ輝くのだと、翡翠はお母さんに教わったし、翡翠もそう思った。
お母さんが生まれたばかりの小さな妹を抱いて帰って来た。
母の腕の中に抱かれた小さな命の色は青く光っているように見える。図鑑で見た深い深い海の色だ。
おにいちゃん。だっこしてあげて。
お母さんが言う。翡翠は頷いて、サッシに座って、小さな腕いっぱいの小さな命を抱きしめた。
甘い甘いミルクの匂い。ぷにぷに。と、柔らかくてすべすべの肌の感触。温かい。
顔を見つめると、大きな瑠璃色の瞳が翡翠を見ていた。まっすぐに、逸らすことなく。
かわいいね。
翡翠が言う。
かわいいでしょう?
お母さんが言う。
お母さんの腕にはもう一人。菫色に近い不思議な青色の髪をした小さな命が抱かれている。やっぱり、すごく綺麗だった。
かわいいね。
翡翠はまた、言った。
かわいいね。
お母さんも言った。
ねえ。翡翠。
お母さんの声に顔を上げると、見たことがないような真剣な顔をしていた。
なあに?
お母さんが何かとても大切なことを話そうとしている気がして、翡翠はお母さんをじっと見つめた。お母さんのいうことを一つも逃すまいと、小さな翡翠は真剣だった。
もしも……。もしもだけれど、お父さんとお母さんがそばにいられないときがあったら、翡翠が二人を守ってね?
翡翠が抱く妹に母が抱く弟の頬が近づく。
妹も、弟もかわいい。お父さんとお母さんがとても大切にしている。翡翠もとても大切に思っている家族。
うん! ぼくはおにいちゃんだからね!
だから、翡翠は答えた。
ありがとう。翡翠。大好きよ? ……と……を、おねがいね。
得意げに胸を張る翡翠にお母さんは微笑む。
それは、けれど、いつもよりも少し、楽しくなさそうな笑顔だった。
それは春のある日のことだった。
小さな平屋の家に、翡翠は両親と暮らしていた。多分、借家だったと思う。狭くて、家具もあまりない殺風景な家。生活が厳しかったわけではない。父はちゃんと仕事(おそらくはスレイヤーとしての)をしていたし、母はいつも家に居たけれど、魔符や魔法薬を作っているのを見た覚えがある。
その家には家具だけでなく、あまり思い出もない。頻繁に引っ越ししていたからだ。だから、恐らく裕福ではないという理由でそんな古い借家に住んでいたり、家の中にものがなかったわけではなく、頻繁にする引っ越しを楽にするためにものを持っていなかっただけなのだろう。
思い出はない。
と、言ったのだが、ないのは『家』の思い出であって、両親の思い出はたくさんある。あるはずだ。
呪いで封じられていたものが、心の底から、ふと湧き上がる瞬間がある。
大抵、それはとても温かい。柔らかくて、優しくて、甘くて、いい香りがした。だから、温かいものに触れたとき、柔らかいものに触れたとき、優しくしてもらったとき、甘いものを食べたとき、何かのいい匂いがしたとき、湧き上がってくるのだ。
形をしっかりと掴むのは難しい。
5歳のときの記憶だ。20年近く経過している。
それでも、それがどれほど幸福だったのか、翡翠にはわかった。
春のうららかな日。
小さな家の少し雑草が生えた庭。
古い家のサッシから、サンダルを履いて飛び出す。
そんなにいそいだら、ころんじゃうよ? と、少女のような母が言う。
へいき。と、答えて駆け出した。
庭の草花にひらひら。と、舞う蝶を追いかける。
黄色い蝶ふたつ。
白い蝶ひとつ。
陽光に照らされながら、まるで踊っているようだった。
手を延ばしたのは、蝶を手の中に収めたかったからではない。
一緒に踊りたかったからだ。
蝶が飛ぶ姿が楽しそうだったから。
そうして、翡翠が拙い踊りを踊ると、母は微笑む。とても嬉しそうな微笑みだ。
幸せな気持ち。温かくて柔らかくて嬉しい気持ち。
それを、幸せというのだと、その頃の翡翠は知らなかった。知らなかったのだけれど、名前はどうであれ、翡翠は確かに幸せだった。
急に子猫が泣くような声が聞こえてきた。母が立ち上がる。翡翠に背を向けて、家の中に入って行ってしまう。
少し寂しい。
もっと、見ていてほしかったし、笑いかけてほしかった。
けれど、翡翠は、ぐ。と、げんこつを握って前を向いた。
翡翠は知っていた。
ぼくはおにいちゃんだから。
母も、父も、お兄ちゃんだから我慢しなさいなんて言わない。
寂しかったら、寂しいと言っていいのだと教えてくれた。
だから、翡翠は我慢したわけではなかった。
ただ、大好きなお母さんが、お父さんが、大好きで大切にしている弟と妹を自分も大切にしようと思っただけだ。そうやって思っているうちに自分にとっても弟や妹が大切になっただけだ。
翡翠が頑張れば、お母さんも、お父さんも、弟も、妹も幸せになる。それはちっぽけな幸せかもしれない。けれど、昨日よりもほんの少しだけ楽しい今日になる。
それが少しずつ重なって少し大きくなったら、毎日はもっとキラキラ輝くのだと、翡翠はお母さんに教わったし、翡翠もそう思った。
お母さんが生まれたばかりの小さな妹を抱いて帰って来た。
母の腕の中に抱かれた小さな命の色は青く光っているように見える。図鑑で見た深い深い海の色だ。
おにいちゃん。だっこしてあげて。
お母さんが言う。翡翠は頷いて、サッシに座って、小さな腕いっぱいの小さな命を抱きしめた。
甘い甘いミルクの匂い。ぷにぷに。と、柔らかくてすべすべの肌の感触。温かい。
顔を見つめると、大きな瑠璃色の瞳が翡翠を見ていた。まっすぐに、逸らすことなく。
かわいいね。
翡翠が言う。
かわいいでしょう?
お母さんが言う。
お母さんの腕にはもう一人。菫色に近い不思議な青色の髪をした小さな命が抱かれている。やっぱり、すごく綺麗だった。
かわいいね。
翡翠はまた、言った。
かわいいね。
お母さんも言った。
ねえ。翡翠。
お母さんの声に顔を上げると、見たことがないような真剣な顔をしていた。
なあに?
お母さんが何かとても大切なことを話そうとしている気がして、翡翠はお母さんをじっと見つめた。お母さんのいうことを一つも逃すまいと、小さな翡翠は真剣だった。
もしも……。もしもだけれど、お父さんとお母さんがそばにいられないときがあったら、翡翠が二人を守ってね?
翡翠が抱く妹に母が抱く弟の頬が近づく。
妹も、弟もかわいい。お父さんとお母さんがとても大切にしている。翡翠もとても大切に思っている家族。
うん! ぼくはおにいちゃんだからね!
だから、翡翠は答えた。
ありがとう。翡翠。大好きよ? ……と……を、おねがいね。
得意げに胸を張る翡翠にお母さんは微笑む。
それは、けれど、いつもよりも少し、楽しくなさそうな笑顔だった。
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