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短編集 【L'Oiseau bleu】
その一秒は短いけれど輝く宝石の如く 4
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階段へ続く扉を開けると、そこに一青がいた。
「え?」
片手でぎゅ。と、一青の上着を抱きしめたまま、翡翠は時間を止めた。
ドアを握ろうとしたまま、先に開いたドアに驚いたような表情をして、一青は翡翠を見ていた。ほんの一時間ほど前、おやすみ。と、笑顔で別れた時のままの姿だ。パジャマ代わりのジャージにTシャツ。髪は乾かしてあったけれど、セットもしていない。
「どう……して?」
夢を見ているのかと思う。あんまり不安で。あんまり心細くて。あんまりにも恋しいと思っていたから、自分に都合のいい夢を見ているんだろうか。
だとしたら、翡翠の想像力? それとも妄想力? も、捨てたものではない。こんな不安な夜に一青の顔が見られるなら夢でも構わない。
「あ。いや……心配になって」
しかし、そんな翡翠の想像とは裏腹に少し困ったような表情になって、一青が答えた。
声は少し抑えているけれど、静かな部屋によく通る。
「……あ。うん。大丈夫。どこも、痛くない」
寝る前にも疲れていないかと、心配してくれていた。無理をしないでゆっくり休んで。と、食事の片づけを紅二と二人で全部してくれて、その間に風呂に入るようにと気遣ってくれていた。
そんな気遣いがすごく嬉しかった。それを思い出すと、心が温かくなる。
さっきまであんなにも不安で心細かったのに、一青に、一青の気持ちに触れただけでもう、落ち着きを取り戻せている自分がいることに翡翠は驚きと、それから自嘲。
幸せボケというのかもしれない。
自分自身に苦笑した。
「や。そうじゃなくて……ああ。違う。それもあるんだけど」
困ったように頭を掻いてから、一青はそっと翡翠の頬に触れた。
「翡翠が。いなくなったらどうしようと思ったら、足が勝手にここまで来てた」
一青の言葉に、ぶわ。と、全身に何かが湧き上がってきた。
この気持ちは何だろう。
これが何かは分からない。
ただ、心配してくれて会いに来てくれただけでもよかった。それだけでも幸せだったし、嬉しかった。
けれど、一青が会いに来てくれた理由が、翡翠が一青に会いたいと願っていた理由と同じだとわかったら、湧き上がる思いが溢れて取らなくなった。
それは、愛おしい。に似ていた。
それは、涙が溢れそうなほど心を震わせた。
それは、熱病に似て、胸を苦しくさせた。
それは、凍える心を焦がす太陽のようだった。
それは、からっぱだった心を満たす湧き水のようだった。
それは、荒れ野をかける風のようだった。
それだけで、翡翠のちっぽけな心など、すぐにいっぱいになってしまった。
「かっこわりいな」
そう言って苦笑した一青の胸に抱きつく。
ぱさり。と、静かな音を立てて、持っていた上着が床に落ちた。
一青の胸に飛び込むと、彼はその背を優しく抱いてくれた。全身に感じる温かな感触。それが、夢でなく本物だと実感できる。
それだけで、翡翠の抱えていた不安の殆どは心の隅に追いやることができた。
「翡翠」
耳元を擽る一青の低い声。いつまでも聞いていたくなるような甘い響き。
「かっこ悪くなんてない」
自分の感じている思いをちゃんと伝えたくて、翡翠は言った。
「……同じだ。俺も全部夢じゃないかって不安だった」
一青の顔を見上がると、その青い瞳がじっと翡翠を見ていた。
「どこにも行かない。一青が必要だって思ってくれているなら、ずっと、一緒だ」
背伸びをして、その唇に触れるだけのキスをした。その唇が少しだけ冷たい。もしかしたら、声をかけられずにドアの外で葛藤していたのだろうか。会いに来るのを躊躇っていたのだろうか。それを想像するだけで、愛おしさが増していく。
全部持っている一青。
容姿も、才能も、人格も、家柄も、人脈も、チャンスも。
それでも、その彼が今、この瞬間最も必要としているのが自分なのだ。
それだけで、翡翠は自分など全部差し出しても構わないと思えた。
「そばにいてもいい?」
ぎゅ。と、強く抱きしめられて、離してくれそうにないのに、まるで懇願するように一青が言う。そばにいたいと願っているのは一青だけではない。翡翠だってはじめから、そばにいられるならずっとそばにいたいと願っている。
ただ、そんな我儘を言っていいのだと知らなかった。どんなに切ない夜でも、寂しい夜でも、帰れと言われたら帰るのが当たり前だったし、少なくとも今まで一人も、翡翠のそんなささやかな我儘を叶えてくれるような人はいなかった。
「……そばにいたい」
だから、そんな言葉を翡翠が自分から言ったのは初めてだった。
呟くように言うと、一青の腕にさらに力が籠る。息ができないくらい強く抱きしめられて目が眩む。
「部屋、入っていい?」
一青の声に頷くだけで答えると、不意に身体が宙に浮いた。足が地面についていた感触がなくなって、一青の腕に抱きあげられているのだと知る。
「わ。一青?」
バランスを崩してその頭を掻き抱く。シャンプーの匂いがした。それが、すごく、艶っぽい気がしてどうしようもなく鼓動が跳ねる。
気付かないで。願うけれど、きっと一青にはわかってしまっていると思う。けれど、頬を擦り寄せるようにした一青は何も言わなかった。
「え?」
片手でぎゅ。と、一青の上着を抱きしめたまま、翡翠は時間を止めた。
ドアを握ろうとしたまま、先に開いたドアに驚いたような表情をして、一青は翡翠を見ていた。ほんの一時間ほど前、おやすみ。と、笑顔で別れた時のままの姿だ。パジャマ代わりのジャージにTシャツ。髪は乾かしてあったけれど、セットもしていない。
「どう……して?」
夢を見ているのかと思う。あんまり不安で。あんまり心細くて。あんまりにも恋しいと思っていたから、自分に都合のいい夢を見ているんだろうか。
だとしたら、翡翠の想像力? それとも妄想力? も、捨てたものではない。こんな不安な夜に一青の顔が見られるなら夢でも構わない。
「あ。いや……心配になって」
しかし、そんな翡翠の想像とは裏腹に少し困ったような表情になって、一青が答えた。
声は少し抑えているけれど、静かな部屋によく通る。
「……あ。うん。大丈夫。どこも、痛くない」
寝る前にも疲れていないかと、心配してくれていた。無理をしないでゆっくり休んで。と、食事の片づけを紅二と二人で全部してくれて、その間に風呂に入るようにと気遣ってくれていた。
そんな気遣いがすごく嬉しかった。それを思い出すと、心が温かくなる。
さっきまであんなにも不安で心細かったのに、一青に、一青の気持ちに触れただけでもう、落ち着きを取り戻せている自分がいることに翡翠は驚きと、それから自嘲。
幸せボケというのかもしれない。
自分自身に苦笑した。
「や。そうじゃなくて……ああ。違う。それもあるんだけど」
困ったように頭を掻いてから、一青はそっと翡翠の頬に触れた。
「翡翠が。いなくなったらどうしようと思ったら、足が勝手にここまで来てた」
一青の言葉に、ぶわ。と、全身に何かが湧き上がってきた。
この気持ちは何だろう。
これが何かは分からない。
ただ、心配してくれて会いに来てくれただけでもよかった。それだけでも幸せだったし、嬉しかった。
けれど、一青が会いに来てくれた理由が、翡翠が一青に会いたいと願っていた理由と同じだとわかったら、湧き上がる思いが溢れて取らなくなった。
それは、愛おしい。に似ていた。
それは、涙が溢れそうなほど心を震わせた。
それは、熱病に似て、胸を苦しくさせた。
それは、凍える心を焦がす太陽のようだった。
それは、からっぱだった心を満たす湧き水のようだった。
それは、荒れ野をかける風のようだった。
それだけで、翡翠のちっぽけな心など、すぐにいっぱいになってしまった。
「かっこわりいな」
そう言って苦笑した一青の胸に抱きつく。
ぱさり。と、静かな音を立てて、持っていた上着が床に落ちた。
一青の胸に飛び込むと、彼はその背を優しく抱いてくれた。全身に感じる温かな感触。それが、夢でなく本物だと実感できる。
それだけで、翡翠の抱えていた不安の殆どは心の隅に追いやることができた。
「翡翠」
耳元を擽る一青の低い声。いつまでも聞いていたくなるような甘い響き。
「かっこ悪くなんてない」
自分の感じている思いをちゃんと伝えたくて、翡翠は言った。
「……同じだ。俺も全部夢じゃないかって不安だった」
一青の顔を見上がると、その青い瞳がじっと翡翠を見ていた。
「どこにも行かない。一青が必要だって思ってくれているなら、ずっと、一緒だ」
背伸びをして、その唇に触れるだけのキスをした。その唇が少しだけ冷たい。もしかしたら、声をかけられずにドアの外で葛藤していたのだろうか。会いに来るのを躊躇っていたのだろうか。それを想像するだけで、愛おしさが増していく。
全部持っている一青。
容姿も、才能も、人格も、家柄も、人脈も、チャンスも。
それでも、その彼が今、この瞬間最も必要としているのが自分なのだ。
それだけで、翡翠は自分など全部差し出しても構わないと思えた。
「そばにいてもいい?」
ぎゅ。と、強く抱きしめられて、離してくれそうにないのに、まるで懇願するように一青が言う。そばにいたいと願っているのは一青だけではない。翡翠だってはじめから、そばにいられるならずっとそばにいたいと願っている。
ただ、そんな我儘を言っていいのだと知らなかった。どんなに切ない夜でも、寂しい夜でも、帰れと言われたら帰るのが当たり前だったし、少なくとも今まで一人も、翡翠のそんなささやかな我儘を叶えてくれるような人はいなかった。
「……そばにいたい」
だから、そんな言葉を翡翠が自分から言ったのは初めてだった。
呟くように言うと、一青の腕にさらに力が籠る。息ができないくらい強く抱きしめられて目が眩む。
「部屋、入っていい?」
一青の声に頷くだけで答えると、不意に身体が宙に浮いた。足が地面についていた感触がなくなって、一青の腕に抱きあげられているのだと知る。
「わ。一青?」
バランスを崩してその頭を掻き抱く。シャンプーの匂いがした。それが、すごく、艶っぽい気がしてどうしようもなく鼓動が跳ねる。
気付かないで。願うけれど、きっと一青にはわかってしまっていると思う。けれど、頬を擦り寄せるようにした一青は何も言わなかった。
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