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短編集 【L'Oiseau bleu】
その一秒は短いけれど輝く宝石の如く 3
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顔が見たい。
一青の優しさに縋りたい。でも、我儘を言いたくない。そのせめぎ合いで言葉に出さずに唇だけが動いた。
口に出してしまったら、きっと、翡翠以上に疲弊していても一青はそばにいてくれる。だからこそ、我儘なんて言えない。紅二が隣にいると分かっている部屋に押しかけることだってできない。折角自分を家族だと言ってくれるあの純粋な少年に浅ましいと思われるのは嫌だ。
だから、翡翠はベッドの上に座り直して膝を抱える。
緋色が国政のために設えた部屋。
ベッドルームとリビングには明確な仕切りがなく、天井まであるスライドさせて収納できるパーテーションで仕切られている。それを今は全開にしているから、部屋は広いワンルームのようになっていた。
今はブラインドを閉めているけれど、大きな窓からは街の風景が見えていた。絶景というわけではない。何でもないただの住宅街の風景だ。けれど、その窓の向こうには生きる人の命とか生活が感じられた。
キッチンは広くはないけれど、ほしいものは大方揃っている。クロスのソファはゆったりと広くて、座り心地がいい。テレビはないけれど、大きなステレオがある。ステレオを置いた棚のある壁面には大きく引き伸ばされた星空の写真。
部屋の続きにはサンルームまである。日当たりが良く、風通しもいい。
多分、この家で一番居心地がいい部屋。この部屋を設えた人物が、それを贈った人をどれだけ思っていたのか、行き届いた気遣いに滲みだしていた。
しかも、今は誰も使っていないと言っていたその部屋は、それでも埃が溜まることもなくきちんと整えられている。
翡翠が一人で暮らしていた事務所の寮とも、奈落の居室とも全く違う。世界の温かいものを集めたような場所。
それでもなお、独りでいるのは心細かった。
視線の先、部屋のドアが見える。その先にはもう一つ鍵のかかる扉があって、さらにその先は階段になっていて、一青と紅二が暮らす場所に繋がっている。
一青はもう、眠っただろうか。
ほう。と、ため息をついて翡翠はベッドから立ち上がった。別に何をしようと思ったわけでもない。なんとなく居ても立っても居られなかっただけだ。だからと言って、立ち上がってもすることもない。とりあえず窓際まで歩いて、ブラインドに手をかける。僅かに隙間を開いて外を見ると、時間のせいか真下の住宅街の明かりはまばらだ。けれど、遠くに見えるドーム中心地は未だ明るく、その夜景がドームの天井に写り込んで、不思議な色合いを見せている。
綺麗だと、素直に思う。
ほんの数日前まではそんなことを思う余裕はなかった。もちろん、あの四角い部屋のどこにも美しいものなんてなかった。
戻りたくない。
ふる。と、細い肩が震える。自分用に買ったスエットは新品の匂いがして落ち着かなかった。
部屋を見回す。そこに、一青の痕跡を探す。ふと、キッチンのカウンターの椅子の背に置いてあるものが目に入った。少ない翡翠の私物が入った紙袋。退院の時に持ってきていたものをそのまま部屋まで持ってきていたのだ。
深夜だからなるべく音を殺してそれに歩み寄る。
紙袋の口を開くと、そこには初めて会った日、一青が貸してくれた上着が入っていた。彼が、『それはあげる』と、言っていたものだ。
袋から出すと、それだけで、ふわ。と、香る。一青の匂い。鏑木家の使っている柔軟剤の匂い。
顔を埋めると、少し、汗の匂い。多分仕事用だからいつも使っている香水の匂いはほとんどしない。かわりに、一青自身の匂い。身体を重ねたときに香ってきた香り。爽やかな香りだ。
「……一青」
気持ちを落ち着かせるために探した痕跡なのに、心がざわつく。余計に会いたくなってしまった。
元々独りでいる時間が長かった翡翠だ。呪いが消えて恐怖から解放されれば、同じ建物の中に一青がいるのに寂しい。心細い。なんて、思うことはないと思っていた。
「……こ……わい」
無意識に足が動く。室内にフローリングの床を踏む静かな足音が解けていく。
リビングの扉を開けて、4階の玄関にあたる場所に出た。廊下は暗い。一歩前に出ると、人感センサーで足もとに小さな明かりがともった。
深く何かを考えていたわけではない。こんな時間に一青のところに押しかけようと思っていたわけではない。けれど、圧し掛かってくる不安をベッドの上に座ったままやり過ごすことはできなかった。
それくらいに、翡翠が心に負っている傷は深かったし、歩いてきた道のりは険しすぎた。
扉に手をかける。
会えなくてもいい。
せめて、もう少しだけ近くに。
翡翠は自分自身に言い聞かせてノブをひねった。
一青の優しさに縋りたい。でも、我儘を言いたくない。そのせめぎ合いで言葉に出さずに唇だけが動いた。
口に出してしまったら、きっと、翡翠以上に疲弊していても一青はそばにいてくれる。だからこそ、我儘なんて言えない。紅二が隣にいると分かっている部屋に押しかけることだってできない。折角自分を家族だと言ってくれるあの純粋な少年に浅ましいと思われるのは嫌だ。
だから、翡翠はベッドの上に座り直して膝を抱える。
緋色が国政のために設えた部屋。
ベッドルームとリビングには明確な仕切りがなく、天井まであるスライドさせて収納できるパーテーションで仕切られている。それを今は全開にしているから、部屋は広いワンルームのようになっていた。
今はブラインドを閉めているけれど、大きな窓からは街の風景が見えていた。絶景というわけではない。何でもないただの住宅街の風景だ。けれど、その窓の向こうには生きる人の命とか生活が感じられた。
キッチンは広くはないけれど、ほしいものは大方揃っている。クロスのソファはゆったりと広くて、座り心地がいい。テレビはないけれど、大きなステレオがある。ステレオを置いた棚のある壁面には大きく引き伸ばされた星空の写真。
部屋の続きにはサンルームまである。日当たりが良く、風通しもいい。
多分、この家で一番居心地がいい部屋。この部屋を設えた人物が、それを贈った人をどれだけ思っていたのか、行き届いた気遣いに滲みだしていた。
しかも、今は誰も使っていないと言っていたその部屋は、それでも埃が溜まることもなくきちんと整えられている。
翡翠が一人で暮らしていた事務所の寮とも、奈落の居室とも全く違う。世界の温かいものを集めたような場所。
それでもなお、独りでいるのは心細かった。
視線の先、部屋のドアが見える。その先にはもう一つ鍵のかかる扉があって、さらにその先は階段になっていて、一青と紅二が暮らす場所に繋がっている。
一青はもう、眠っただろうか。
ほう。と、ため息をついて翡翠はベッドから立ち上がった。別に何をしようと思ったわけでもない。なんとなく居ても立っても居られなかっただけだ。だからと言って、立ち上がってもすることもない。とりあえず窓際まで歩いて、ブラインドに手をかける。僅かに隙間を開いて外を見ると、時間のせいか真下の住宅街の明かりはまばらだ。けれど、遠くに見えるドーム中心地は未だ明るく、その夜景がドームの天井に写り込んで、不思議な色合いを見せている。
綺麗だと、素直に思う。
ほんの数日前まではそんなことを思う余裕はなかった。もちろん、あの四角い部屋のどこにも美しいものなんてなかった。
戻りたくない。
ふる。と、細い肩が震える。自分用に買ったスエットは新品の匂いがして落ち着かなかった。
部屋を見回す。そこに、一青の痕跡を探す。ふと、キッチンのカウンターの椅子の背に置いてあるものが目に入った。少ない翡翠の私物が入った紙袋。退院の時に持ってきていたものをそのまま部屋まで持ってきていたのだ。
深夜だからなるべく音を殺してそれに歩み寄る。
紙袋の口を開くと、そこには初めて会った日、一青が貸してくれた上着が入っていた。彼が、『それはあげる』と、言っていたものだ。
袋から出すと、それだけで、ふわ。と、香る。一青の匂い。鏑木家の使っている柔軟剤の匂い。
顔を埋めると、少し、汗の匂い。多分仕事用だからいつも使っている香水の匂いはほとんどしない。かわりに、一青自身の匂い。身体を重ねたときに香ってきた香り。爽やかな香りだ。
「……一青」
気持ちを落ち着かせるために探した痕跡なのに、心がざわつく。余計に会いたくなってしまった。
元々独りでいる時間が長かった翡翠だ。呪いが消えて恐怖から解放されれば、同じ建物の中に一青がいるのに寂しい。心細い。なんて、思うことはないと思っていた。
「……こ……わい」
無意識に足が動く。室内にフローリングの床を踏む静かな足音が解けていく。
リビングの扉を開けて、4階の玄関にあたる場所に出た。廊下は暗い。一歩前に出ると、人感センサーで足もとに小さな明かりがともった。
深く何かを考えていたわけではない。こんな時間に一青のところに押しかけようと思っていたわけではない。けれど、圧し掛かってくる不安をベッドの上に座ったままやり過ごすことはできなかった。
それくらいに、翡翠が心に負っている傷は深かったし、歩いてきた道のりは険しすぎた。
扉に手をかける。
会えなくてもいい。
せめて、もう少しだけ近くに。
翡翠は自分自身に言い聞かせてノブをひねった。
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