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The Ugly Duckling

encounter 7/7

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 その瞬間だった。

「……あ」

 透明で、清らかで、冷たく心地よい澄んだ水が湧き上がってくるような感覚に包まれる。

「……み……ず」

 それは、とてもとても心地よい感覚だった。身体の汚れがすべて洗い流されていくような、そんな感覚だった。

「大丈夫か?」

 すぐ近くで聞こえた声に翡翠ははっとして顔を上げた。いつの間にか部屋に入って来ていた一青がベッドのわきで見下ろしている。
 澄んだ水のような感覚は消えていた。

「……あ……」

 見上げた先には信じられないくらいに美しい男がいた。
 少し長めの青い髪を後ろに撫でつけて、まるでサファイアのような澄んだ色の瞳を持つその人は、とても背が高くて、肩幅の広い男だった。細く形の良い眉を少し心配そうに寄せて、切れ長の青い瞳でじっと翡翠を見ている。す。と通って綺麗で高い鼻梁はこれ以上相応しい場所などないという場所に納まって、優しく低い声を発する薄い唇は何かを語りだそうかと、思案しているようだった。

「これ。着ていて」

 翡翠は言葉が見つからなかった。こんなに綺麗な人間がいるんだろうかと、ただ茫然としていた。
 その放心の間に一青は自分が着ていた上着を脱いで、翡翠の肩にかけてくれた。その時になって初めて自分が何も着ていないことに気付いて、翡翠は慌てて、せめてもと股間だけを隠す。きっと、顔は真っ赤になっていたと思う。

「名前は?」

 一青は手を貸して、袖まで通させてくれて、ジップアップの前を上げることさえ翡翠にさせはしなかった。その仕草のいちいちが全部優しくて、丁寧で、優雅な仕草だった。
 貸してくれた上着はすごく大きくて、小柄な翡翠では太腿の中ほどまで隠れてしまう。それは、彼のスタイルの良さを物語っていた。上着を脱ぐと、ぴったりとしたインナー越しに、その身体が細く見えて、しかし筋肉の塊なのだと分かる。腰の位置もびっくりするくらいに高い。

「こたえられない?」

 上着のファスナーをあげてから、彼はベッドの下に膝まづいて、翡翠の目線に会わせて聞いてきた。
 その視線に、またしても見惚れていたことに気付いて、翡翠は頬をこれ以上ないくらいに赤く染めた。

「や。……その。水瀬……」

 恥ずかしい。こんな場所で、こんな状態で、あまりの綺麗さに見惚れていたなんて。その上、素っ裸も見られて、上着まで貸してもらったのに呆けてお礼すらできなくて、恥ずかしくて消えてしまいたい。
 それから、もう一つ。恥ずかしいことがあった。

「……えと。水瀬(みなせ)……翡翠」

 翡翠はこの大袈裟な名前が嫌いだった。
 あの客の言った通りだ。自分には全く相応しくない。翠というのがおこがましい、ほぼ黒髪に黒い瞳。宝石の名前なんて似合うはずもない凡庸な自分。それを知られるのはいつだって恥ずかしいけれど、こんな綺麗な人を前にそれを恥ずかしげもなく言うことなんてできなかった。

「……水瀬……翡翠」

 一青はその名を繰り返した。やはり、優しい声だった。

「あの……翡翠って顔じゃないけど……両親が夢見ちゃったってか……その……」

 そう言ってから、辛くて、翡翠は眉を寄せた。顔も覚えていない父や母は自分に何を見たのだろう。何を望んだのだろう。

「どして? 綺麗な名前だ」

 けれど、一青は微笑んでくれた。この名前をほかの人に告げた時の嘲笑とは違う。優しくて、暖かい笑顔だった。

「翡翠さん。痛いところとか、キツイとことかある?」

 下の名前で呼ばれて、翡翠の頬がまた、わずかに上気した。一青の口から発せられるその名前はすごく綺麗なもののようだった。

「えと……その。脚とか……」

 それなのに、その名前を持つはずの自分はこんなにも汚い。さっきまで名前も知らない男に抱かれていた。いや、数えきれないほど、その身体は男を受け入れている。もちろん、望んだことではないけれど、目の前の綺麗な人とのあまりの違いに切なくなる。
 だから、男を受け入れたその部分や、激しく犯された腰が酷く痛むことなんて言えるはずがなかった。

「顔。殴られたのか? 傷になってる」

 目の下の青く腫れている部分にそっと触れて、一青が言う。苦痛とも、怒りともつかない表情だった。

「……あ。それは……客に……別になんともない。いつものことだから」

 一青の手はとても温かかった。自分に触れたら汚れてしまう。そんなふうに思うけれど、触れてくれることを拒否できない。純粋に嬉しかった。

「客……か。とにかく、くわしい話は安全な場所に移動してから聞かせてもらうよ。でも……嫌なことや、辛いことなら話さなくてもいいから」

 そう言って、一青は手を差し伸べてくれた。大きくて綺麗な手だった。
 その手を取っていいのか、しばし躊躇う。
 触れた瞬間に消えてしまいそうな気がしたからだ。それが堪らなく怖かったからだ。この救いが夢や幻であったとしたら、多分立ち直ることなんてできない。

「でたくない?」

 その逡巡を別のことと勘違いしたのか、一青が困惑した表情で言う。

「や。違う! そうじゃなくて……」

 その思いをどうやって言葉にしたらいいのかわからなくて、翡翠は口籠った。それから、やっぱり言葉で説明することは諦めて、ベッドの下に足を下ろそうとした。そこで、じゃら。と、鎖の音が響く。

「あ。脚。これのことか?」

 翡翠が手を取るのを躊躇った原因がそれだと思ったのか、一青が言った。
 翡翠の足に繋がれた鎖は別に彼をどこかと繋いでいるわけではない。鎖は1mほどで途切れている。翡翠がここから出られないのは、部屋の隅にあった結界のせいだ。だから、それは翡翠をどこかにつなぐためにあるわけではなく、翡翠が生来持っている魔光を身体の中に押し込めるためにつけられていたのだ。

「え……? あ。いや。……その」

 否定してしまってから、そうだと言えばよかったと後悔する。せっかく助けが来てくれたというのに、自分の態度や言葉は全く要領を得ない。お礼すらまだ言ってはいないし、その上躊躇うような態度では、彼は気を悪くしないだろうか。

「……ごめん。えと」

 失敗してしまったと思うと、言葉はもっと出てきてはくれなかった。どうしていいかわからなくて、俯く。
 もともと、人付き合いは苦手なほうだ。とりわけ嫌われるとかいうことはない。けれど、『そんな人いたっけ?』と、言われてしまうことが多かった。話しかけて驚かれるくらいなら、話さないほうがいいと小さくなっているようなタイプだったと思う。
 嫌われたくない。悪く思われたくない。
 だから、こんなとき、何と言っていいかわからなくなってしまう。

「もしかして。助けがきたこと、信じられなかったのか?」

 まるで、翡翠の心を見透かしたみたいな一青の言葉に翡翠は思わず顔を上げた。
 一青は苦笑していた。けれど、呆れているというわけではなくて、『仕方のないやつだな』と、包み込んでくれるような笑顔だった。

「夢じゃねーし。俺が助けるっつったんだから、助ける。安心して助けられてろ」

 そう言って一青はくしゃ。と、翡翠の頭を撫でた。大きくて、暖かくて、優しい手にほっとする。ほっとしたら、涙が溢れた。今まで耐えてきたものが全部決壊してしまったみたいに、大粒の涙が後から後から溢れて止まらない。

「っ……く……ふ」

 口を押えて嗚咽を漏らすと、一青はその身体を柔らかく包み込むように抱いて、背中を叩いてくれた。

「辛かったよな。も。大丈夫」

 だから、翡翠はその胸に顔を埋めて泣いた。最初は柔らかく翡翠を包んでいた腕は、彼が声をあげて泣き始めると次第に強く、きつくその細い身体を抱いてくれた。

 どれくらいそうして泣いていただろう。気づくと、暖かくて力強い腕と、その胸から聞こえる鼓動と、大丈夫と繰り返してくれる低く優しい声に嗚咽が治まっていた。かわりに酷く身体がだるくて、腕にも足にも瞼にすら力が入らなくなってくる。そうして、そのまま翡翠は目を閉じた。
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